検索と辞書

分からない単語があると、インターネットのGoogleのキーワード検索を繰り返していたが、検索エンジンでも実際には辞書の索引を引用している。もし任意の書類やPDFにキーワードを検索する機能があれば、便利だけれど。そうするためには、あらかじめ紙媒体の資料をデジタル文字にスキャンして、それを連想配列のように升目に登録しておく必要がある。そのようにして頻出する単語は利便性がある。また歩いているときに辞書を持ち運ばなくて済むようになっている。Google検索も断片的な情報を体系化することに長けている、正確なデータでなくとも、SEO対策によって、書籍やお店が広告用のキーワードを一方的につけて、利用するユーザーのアクセスによって、必要な単語が最適化される。オンラインショップのamazonでは、ロングテールという、比較的マイナーな商品が少数ではあるが、宣伝広告を介さない形でも、その場所を覚えているか、または検索キーワードでアクセスすることで、細々と存続するケースがある。当初はamazonでもその在庫を把握できずに、ドメインを国内ならamazon.co.jpでアメリカならamazon.comに指定して、キーワードをGoogleで検索することがしばしばあった。しかしながら、やがてはAmazonにも専用のキーワード検索ができるようになった。もともとはAmazonも雑貨を扱うお店で、インターフェースも可読性よりも、丸みを帯びたおおらかなフォルムでカテゴリを充実させていくというどちらかというと規則性や網羅性はそこまで重要視されていなかった。

Googleのキーワード検索も、創業者のペイジが、Yahoo!の日本でいうタウンページのような電話帳に付箋のような形で広告Adsenseを端に足すもので、それがキーワード検索とは直接は関係ないが、広告収入になった。Googleはキーワード検索が無料ではあるが、国内のデータベースで行うと、設備費や維持費をまかなうための従量課金の仕組みをとる必要がある。amazonのDBである、AWS(amazon web service)でも、SNSの画像や動画ファイルなどの倉庫としてつかわれているが、実際には維持費が掛かっている。そういった意味では普段よく使うものだけでなく、多様性の特長を見つけることが必要になってくる。しかしながら、もし電子辞書や電子書籍に索引だけでなく通信用のWiFiがあったら、翻訳機のポケトークのように録音機能が無かったとしても、連想的に意味合いを広げることができそうだ。しかしながら電子辞書には情報をコンパクトにして持ち運べるようにするという意味合いがある。

または、もしコマンドラインでGrepのようにキーワード検索ができるすると、配列でキーワードが帰ってくる。簡単な卓球のようなだけでも、情報を網羅することができる。しかしながら、もし検索エンジンがGoogleの介在がなく、直接辞書を参照すると、それはさながら一種の物語のようではある。必ずしも必要な情報ばかりではないが、連想を材料をアナログに組み合わせることができる。

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OpenStreetMapと町並み

Leafet.jsはOpenStreetMapというオープンソースの地図を使っている。NHKの教育番組にブラタモリという地理のニッチな雑学ネタをバラエティ番組にお織り込んだ教養番組があったけれど、それにちなんでか、中央区大伝馬町を題材にしたブラ町MAPづくりという散策の企画があった。転職に伴って、とりあえず平日は図書館で新聞を読むことからはじめて、毎日新聞の連載小説をよんだりしてネタを探した。2017年の12月くらいには、人形町では改築が時期が重なり、図書館やマンションでも工事の足場や作業の音がやむことがなく、もしあのガタガタという音が無かったらなあと当時は何度も思っていた。景色も足場ばかりで前が見えず、そういうときこそじっくり文献に当たればいいものをどうにも気が散る。改築前のエレベーターホールにチャリティや観光協会のブラ町MAPづくりのチラシがあり、十思公園まで浜町から歩いて行った。この辺りは祭りの時期になると、郵便局が協賛して、大通りで屋台が組まれる。歩行者天国といえば銀座や秋葉原が印象的ではあるが、大伝馬町でも自動車が通行止めになる時期がある。江戸時代の飛脚や旅籠にちなんで、小伝馬町・大伝馬町と名付けられた。また郵便ポストで見慣れた鮮やかな赤色でない、鈍い青色のポストがある。全国にも数十本しかなく、珍しいポストだという。

メモも盛んに取っていたけれど、2年半くらい立つと、どれだか分からなくなっており、iPhoneのアルバムの日付から明らかになった。記憶ではたしかMAPは、GoogleMapでなく、地域で書き込むができるOpenStreetMapを使っている。その場合、活力というおにぎりのお店があり、看板にはカタカナで、シチロカと書いてある。活力を漢字のパーツに分けたパズルのようなものだ。また大伝馬町にはキハという鉄道車両の記号にちなんだ、鉄道ファン向けのバーがあり、それはGoogleMapにも詳しく載っている。

自動車が通り、中央分離帯という歩道がある道路ばかりではなく、中央区にはマンションや雑居ビルの間に通り道があることもある。こういった町割りは、自動車でなく人力者や飛脚が通っていた江戸時代の長屋の町割りに近い、江戸は徳川家康が幕府を移転するに際して、大阪の堺の町人のインフラを活用した。そのため、表通りは大通りになっているが、裏通りには店や長屋が隣り合わせになっている。また、銀座の木挽町などではその性質が色濃く、まるでロールプレイングゲームにあるギルドのようになっている。

また、たとえば空き地に裏山があったとしても、国土地理院のデータでは標高が十分でなければそれは山にならないけれど、そこに居合わせたとすると野山を駆け回った経験が残る。もしコミュニティで地図にコメントが残せるのなら、そういったそこにしかない独自の地形や家というのも在りうる。それはお店が会員制や料金制という約束事でなく、敷居が低く訪れるものを拒むことがない。また通りにもベンチが置いてあり、道行く人に居場所を提供している。

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チートに頼らないモノづくり

mineCraftのアイテム増殖バグを使ったテクニックで、TNT火薬を増殖させて、飛行ブロックで上から爆撃するというチート行為があった。アイテムの増殖は背景には、アクションやシューティングゲームのようにボタンを押すと反応する紙芝居のようなプログラムと、シュミレーションや育成ゲームのように、画像が消去されないという性質が競合しているためと考えられる。子供向けのスクラッチでも、シューティングゲームを作るときは、弾はタイムラインで、当たり判定に接触したり画面の端に達しない限り理論的には無限に増殖される。アニメーションでも漫画家やイラストレーターの原画をアニメーターがトレースして複製しセル画をタイムライン上であたかも動いているように見せる。ゲーム上で、リアルマネートレードなどの、希少価値のある金やダイヤモンドを増殖させようとするプレイヤーにとっては、アイテムは増殖した方が利益になるけれど、僕のようにブロックを空に羽ばたかせたいと目論んでいる変わり者には、アイテムは増殖すると墜落の原因になるので、mineCraftのバージョンアップで脆弱性を解消してほしかった。

かつてはmineCraftにも現場監督と作業員のようにチーム分けがなされていた。コミックマーケットで、これは買い物中心になるが、耳寄りな情報を集める斥候とそれを束ねる司令塔に分業されていた。一種の階級のようなものがあった。僕はそのどちらにも属さず、ひとりで集めて、またひとりで考えるぼっちだった。それだけにひとりでは領土的な国家より個々が独立した連邦制のほうが、派閥の力関係に翻弄されず居心地がよかった。だれでも使えるような汎用的な仕組みが大切に思えてくる。またこれは数年前になるが、mineCraftに現場監督がいたときのwikipedia(https://www26.atwiki.jp/minecraft/pages/138.html)では、ピストンと粘着ピストンを繋げて、ベルトコンベアのように大量にレールを作り、動くエスカレーターのような設備を作っていた。それによって、労働集約的に手間を掛けられるようになったので、世界遺産や産業設備のトレースをしたりと、実際には冒険のゲーム性もあったけれど、建築が疑似体験できるとして、wikipediaはその設計書のように充実していった。その最後の項目には、むしろ無人でも動くようなミニマムの粘着ピストンと変化を感知するオブザーバーの互い違いの組み合わせがあり、これがパンドラの箱のようになったと思われる。はじめは設計を読まずに、それを壁から壁に動かしていたけれど、あるとき、片方のブロックを手動にすると、一マスずつ空中を歩いている。これによって空中に橋を渡したり、足場を必要以上に組まないでも橋を架けることができるようになった。

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欲の分類とアイデンティティ

Amazonでの買い物より、散策によって、建物や街路樹の様子や、スーパーマーケットやコンビニの棚でリーズナブルなものを探すのが息抜きになっていた。Amazonでは、そういったところでは手に入らないけれど、なんらかの理由で必要になったものを買っていた。例えばそれが成人向けの雑誌やDVDであれば、欲望としては分かりやすく、そういったものがもし遅延すれば、おじさんがもっている童心では悔しい思いもするが、それはあまりにストレートすぎるのか配送員も、素知らぬフリで届けてくれた。

むしろ困るところは、ありそうでなかった品物が届かなかったときで、例えば備え付けの洗濯機や電子レンジと同じ幅の棚などは、それが届かないと部屋が片付かない、部屋が片付かない様子は知らない人には興味はないはずだけれど、受けると前と後で、部屋のレイアウトが変わる。しかしながら整理棚やメタルラックがスーパーマーケットやホームセンターにないわけではなく、不満ならそこで自分で足を運んで買い求めればいいということになる。インターネットがない時代に隣町まで安い、あるいは特長的な日用品を買い求めるあまり、帰り道で転んだりして、レジ袋の中身がこぼれるといった感じのありがちな癖が、インターネットという仮想空間でも代替として存在するのかもしれない。

当日にはドライバーの予定が受付からでは分からないというのは、ここ数年で聞いた新しい問題で、そうなる待っていることに体力をつかう。かつては不在票を素早く入れて、家で待っていてもそれが届かないということがしばしばあった。それだけ平日が忙しくなったのか、通信手段が増えて便利になったのか、問題は存在しながらも悩みかたを変わっている。

googleMapでスマートフォンで位置を確認しながら歩くと、道をあまり見なくなって、かえって迷いそうになることがあった。Wifiの疎通が安定していれば、リアルタイムで地形とGPSが連動して、空間が立体的に把握できるけれど、SIMカードのパケット通信量を動画閲覧に振り分けていたり、壁や地下鉄などの電波が制限される場所では、現在地が分かりそうで分からないという、もどかしい状態になる。そういったときに迷いやすくなる。

また、メールの要件に優先度を考えずに枕詞のように至急と付けるのは、ビラ配りにある急募のようで、具体性がなく一方的で戸惑う、宅配便では、待っている方がしびれを切らして、そんな急かすような対応をして相手を困らせるという印象がよぎる。あるいは、もし人手が足りないのなら、当日配送は無理という旨の連絡を事前にすれば、その時間はなにか指示を受けて拘束されているわけではないけれど、自由に動けるようになる。珍しいことに当日配送が間に合わず延期になった例は、国内では数百の注文のなかでも数えるほどしかない。電車よりも宅配便のほうが、意識している部分はある。

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慣習と雑学の関わり

Modern Slavery Act 2015 (現代奴隷法)はイギリスで定められた、どちらかというと慣習法だ。マスコミはメジャーな憲法改正を引き合いに出すけれど、法律は弁護士の為だけでなく、意見が対立したときにお互いが納得する妥協の手段として考案されたもので、それ自体に強制力があるわけではない。

とある編集プロダクションの結社でも、語り口こそ柔らかいが、家父長権限が強く、かつて早稲田大学の大隈重信が、欧米列強(というのは同時代の作家の森鴎外が子供に力関係を示そうとして手習いで書いたメモのようなキーワードで、どの国が強いかは流動的だったと思われる。)が、米国大使タウンゼント=ハリスとの会見のなかでそのようなことは国際法に違反すると、窮鼠猫を噛むようにして、まくしたてたという。彼自身、国際法という中立国家のオランダのグロティウスが提唱したニュアンスのような形のないものに、説得力があるかどうかは想像が許される。

草莽崛起というのは、明治維新のときに識字率の高さから、大日本帝国憲法の草案は教科書に載ってはいないけれど、高校ではタバコと携帯電話が校則で禁止はされていたが、タバコが禁止されたのは、明治時代に定められた民法によるもので、パッケージに健康へのメッセージとともに書いてあり、それがあたかも常識であるかのように僕らに刷り込まれている。

山口県にある松下村塾では吉田松陰に伊藤俊介という後の伊藤博文がおり、金子堅太郎らがドイツ風のロジックで植木枝盛らのフランスのルソーの人間不平等起源論から結んで開いてを和訳した慣習法を押さえつけて当時の皇室に上奏する形式を定着させた。こう言った書籍は大学に行く前に、神田の古書店に置いてある文庫本を拾って読んで得たヒントも含まれている。しかしながら、電子メールによって原稿用紙をなぞらなくても作文ができて、ジーグレーという版画のように写真をなぞったり着色するPhotoShopなどのレタッチソフトのように、消しゴムを使わずに書いたり消したりできて、共有もできる。高度経済成長期の一太郎のように、原稿用紙に近いものが外来の記録媒体になってしまったのは、漫画家のみなもと太郎の風雲児たちにページが多い杉田玄白らの解体新書のくだりにも似ている。

あるいは消費税が改定されればタバコも安くなり、嗜好品は比較的入手しやすくなることが予想される。僕はコンビニのPOSシステムで消費税の値札を一枚ずつ張り替えていたこともあり、農本主義という吉野作造が大正デモクラシーの機運で作った、日本版のマックスウェーバーとプロテスタンティズムの倫理から、離れることができなかった。それはちょうど、目玉焼きには醤油で、ウスターソースをかけるのは慣れないという染みついた感覚と似ている。とはいえ、醤油は味噌の上澄みだったけれど、明治時代から化学的に合成されて和風に落ち着いている。江戸時代では入り酒という料理酒で梅を煮詰めたものが主だった調味料だとされている。

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工夫を見つける

それが不条理であったとして、予め知っている有識者と呼ばれる人に助力を乞うことが難しい。しかしながら脳内での独り言が影響する可能性は僕は科学的でないと思う、大抵はなにか言いくるめられそうな不利な状況であることが多い。仮に自分が被害者で無かったとしても、競争相手が何らかの都合で退場するというのは、実力や交渉の段取りによるものでなく、単純に相手が気に入らない、またはスキンシップを取ろうとして断られたという子供じみた要求がある。とはいえ、大人になったり、その分野の知識を得たとしてもエゴを完全になくすことはできず、行動の起点になるポイントをマークされているのだと思う。とはいえ、優劣でなく好き嫌いで動いていくのは違和感を感じる。自転車を何者かに盗まれて、埼玉県の奥地に捨てられ、 監視カメラで自転車泥棒を捕まえたというでっち上げが、コミュニティであったときはなにを自慢げに話しているのかと訝しかった。もしそれがマウンティングというグループで上下関係から住み心地を決めるためのなにか非合法な取り組みだとすれば、それが勝っているときは相手も恐れるけれど、もしそうでなかったら、いじめにつながる。そうなった理由としては、僕にも原因はあるかもしれないが。

男性が女性について語るときは、たいてい立場の強い弱いが主で、実際の女性はほとんど関係ない。男子校で鬱憤を晴らしているようなものだ。こと芸能人の専門学校や、劇団員の人生論などは、突き詰めると苦労話で、苦労はもちろん悪いものではないが、他人に強要するようなものでもない。例えば釣りをする方法を教えたりなど、たとえ仲のいい相手でなかったとしても、なんらかのお得感がある情報が必要だと考える。

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科学と物理を橋渡しする仕組み

銅は熱伝導性が金属の中で高いけれど、一般的には鍋にはステンレスなどの鉄やアルミニウムが使われている。銅では熱が伝わりやすいので、均一に熱が伝わりやすいが、熱しやすく冷めやすいという性質がある。アルミニウムではアルミ箔で包んだジャガイモなどは熱が銅のように通りやすいという性質をつかっている。自宅のベランダでも蓄電池からIHクッカーにアルミニウムの鍋を付けて、炊飯をしたりしていた。なかにはコメから白い煙がでる富山県産の無洗米でない米があり、味だけでない炊事の体験ができた。とはいえ、飯盒があればアルミニウム拍だけでも太陽光を集めて熱を作り、ソーラークッカーという電気を使わない設備でも調理は可能だという。直流の電圧が、パソコンの専門メーカーでも出力が家電ほど上げる必要が無い中で、キッチンで無い場所で乾燥ヌードルや水パスタなどに端を発し、手軽に机や空いた場所で調理できるのは、安心感がもたらされる。確かに設定を工夫して炊飯できるくらいの出力を確保することも労力を要するけれど、マクスウェルの電磁法則もフィールドワークで得られたという逸話があるし、可能性を探求することで、それが見つかった時に自分だけでなく誰かにも使えるようになる。ガスコンロの代わりに電気を使うことでも熱を生むことで温かみを確保できた。または銅やアルミは空気や水の流れと合わせると簡易的なクーラーにもなる。

銅やステンレス二重タンブラーを使った熱を集めるものは、科学というよりは物理学に属するのかもしれない、それだけ銅はコインなどでは比較的潤沢だけれど、パソコンなどを冷却するヒートシンクでは数が少なく珍しい。ペルチェ素子ではアルミニウムの水冷ブロックを使うことで、ペルチェ素子のブロックを小型化することができた、そこでさらに熱伝導率が高い銅の水冷ブロックでまた試して見ようと思う、また銅はアルミニウムに比べて参加しやすいけれど、酸化銅には毒性が無いので、水や空気を冷やすこともできる。もしその性質で銅の鍋があればと思ったがおでんの鍋や卵焼きパンのように、温度を均等に伝える用途で使っている。もしそれらですき焼きを作るように米を焚いたら、炊飯器より素早く調理できるかもしれないが、シチュエーションが思い浮かばない。また鉄は熱伝導性は高くないが、比熱という熱を保つ要素は高い。もっとも比熱が高いのは水で、お湯を沸かして、入れ物にいれるという行為も熱を形にして運んでいることになる。電気が無かった江戸時代にも、熱湯で魚を湯霜という加熱する調理法があるがこれも比熱を利用したものだ。または床暖房のようにパイプにお湯を通して床を温めるのも水が温度を保ちやすいという性質による。とはいえ。お湯が湯気をだして気体に変わると温度が冷めていく、冷蔵庫ではお湯のほうが水より湯気がある分氷になりやすい。ホッカイロを衣服の中にいれると中から少ない熱で温める。その性質から、USBの5Vから二重タンブラーなどの密閉した容器に熱を貯めたり、またはペルチェ素子を水冷ブロックと合わせて、二重タンブラーに入れると空気中の水分が霜になり、やがて氷になる。ペルチェ素子の冷蔵庫もあるようだけれど、ペルチェ素子自体は異なる二種類の金属に電気を流すと熱が低い方から高い方に移動する性質によるので、比較的静かだけれど、消費電力は比較的高い。規模自体を小さくすれば消費円力を節約することができるけれど。

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AndroidとiPhoneの特長

スマートフォンをiPhoneからAndroidに替えるにあたって、いくつかの課題があった。iPhone6sはバッテリーの容量が1750mAhで、単三の乾電池およそ4本分だけれど、年月が経つうちに容量が不足してきた、とはいえフル充電すると、半日は電池が持つ。Google Pixelと相性のいい、ankerは容量はiPhone6sを5回くらい充電できる容量のものもあるが、残量はパーセントでなく、8段階の表示になる。コンセントから充電する分には、それでも十分に容量があるが、どのくらい充電されたかが、分かりにくい。また、iPhoneやandroidでも液晶画面の大型化とCPUの高性能化に伴って、消費電力は相対的に上がっている。またyoutubeにankerの非常用のUPS電源と、乗用車の助手席のシガーソケット12Vの電源でご飯を炊く、タケルくんというプラスチック製の炊飯器がある。それが連携した様子がなんともいえずシュールだった。炊飯器は合計電力が100W前後にする必要がある。車のバッテリーが上がってしまうためだという。タケルくんは見かけによらず、省エネにヒントをもたらしている。

また、iPhoneにはアプリケーションをインストールするのに、日本国内向けにローカライズしたものしかインストールできない、そのためセキュリティソフトなどでガードができない。僕もブラウザ経由で標的型のマルウェアに感染してたこともあった。カスペルスキーでも、専用のセキュリティブラウザという窓口を変えるくらいしか対策がなく、iPhoneは完成されているものの、拡張性が無かった。日本のiTuneStoreだけでなく、中国やアメリカのiTunesStoreでしかアクセスできないアプリケーションもある。そういった翻訳されていないものをインターフェースから意味合いを推測しながら海外の雰囲気を掴むのが僕は意外と興味関心が湧くところだ。

Andoidでは、apkのインストールが、容易になり、海外のアプリケーションを入れることも可能になるが、セキュリティソフトがプリインストールされていると助けになる。OPPO AX7にはavastがインストールされており、またブラウザごとにアプリケーションの許可を設定できる。バックパネルの緑が綺麗だったけれど、電池の容量とスペックのバランスで、Googleの検索やMicroSodtのWordが使えることを踏まえると、中古でCPUとandroidのバージョンが比較的新しいものを選ぶより、正規版を購入してそこから学びを得ようと考えた。GoogleのキーボードGboardは、フリック入力よりQWERTYキーボードの配列のほうが片手でも入力しやすいと感じた。キーボードの一列目のアルファベットの頭文字がQ,W.E.R.T.Yであることに由来する。とはいえ、スマートフォンを横にすると、画面の仮想キーボードが入力画面を圧迫するので、GboardからATOKに変更した。外部キーボードでは薄型のワイヤレスキーボードにしている。Androidでは、メニューアイコンが順番でなく任意の配置にできるので、待ち受け画面がアプリで散らかりにくい、また、iPhoneのようにアプリのアイコンを複数まとめて分類することもできるようになった。文章を入力するときは、wordの画面のズームが入力時に前後するのでそこが気になったくらい。iPhoneでは、外部キーボードをペアリングすると、入力時の仮想キーボードが出なくなるので、パスワードやキーワード検索が、キーボードに集約されるので、小回りが利かない。しかしながらキーボードで文字を大活字本くらいに拡大して、一行ずつ入力していくと文房具のポメラのような書き味があり、昨今のappleでは液晶が大型化してスマートフォンとラップトップPCの連携が図られているけれど、手に馴染む大きさのiPhoneSEを復刻したら、懐かしくて新しいという発見がある。

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パーソナリティと現代の歩み

ぼくはあまりアイドルは分からないが、バラエティ番組は小学校のクラスで目立ちたがり屋がよく引き合いに出していた。いじられた側は端から見るとなにが起こっているかわからないのに、引け目に感じている。そういうときはなるようにしかならない。印象深かったのは、アシスタントディレクターは、テレビの端に待機している、そこでタレントがざっくばらんに語る。いじりがきっかけで筋力トレーニングを趣味にしたといとう男性歌手もいる。なにがおもしろいのかよく分からないが、ベースのフレーズを部分を口ずさんでカラオケを強要するという箇所もある。小学校の放送室にはカセットテープやレーザーディスクといったウォークマンなどの再生設備でなく、定番では登下校にパッヘルベルのカノンを流したり、昼休みにはゴーストバスターズのイントロを流すという、作業だったけれど、なぜその曲なのかはあまり深く考えたことがなかった。それこそ無意識で人気を取っている。

とんねるずがデデデーンとイントロを口ずさんで、歌手が気恥ずかしそうにしていると、バチコーンとディレクターがこづかれる。バチコーンは当時のガキ大将の口癖になっていた。

またあるときクリエイターを目指すような人たちの集まりで、渋谷のスクランブル交差点を見下ろすような定点カメラを起きたいとして、案としては月並みだったが、まるで芸人みたいなバイタリティで、それもいいかもしれないと乗ってみると場が和みそうだった。そのようにして、渋谷の交差点を栃木の映像同好会が、まるで現代版の日光江戸村のように映画のセットにすることになったという。ぼくにはすでにいくつか名作があるのに、そこまで映画化にこだわる理由が分からなかった。当時のテレビは映像技術は優れていたが、既存のマンガをリメイクしたものが多く、相棒のようなシンプルで強いメッセージ性があるオリジナルドラマは少なかった。かくいう相棒も実際には短編でまとまるようなコンセプトをあたかもウナギ屋がタレを継ぎ足しするかのようにして、奥行きを与えている。

ディレクターは、アニメやマンガが好きではないが、性的な絡みはないにしても意味ありげなメタファーがある、ジブリアニメは興味があると煙に巻いた。黒澤明がどんな人でも見方を変えれば主人公という象徴的な名言がある。

図書館では、僕が小学生だった頃は手塚治虫の番外編の陽だまりの木は、志村けんのバカ殿のようで、時代に沿ったまじめな描写だけでなくお色気も多少あって、ライトノベルが蔵書として本棚に並ぶ現代でも、魅力は色あせない。逆に火の鳥のギリシャ・ローマ編は僕こじんでは読み解けず、有名な人が書いているのだから絵も文も書けない僕が、評論しても何にもならないという先入観をなんとかフラットにしようと試みた。中国のスマートフォンでもアニメをモチーフにしたギリシャ神話のモデルがある。自分のというわけではないが、たしかにヒューマニズムを題材にしたドラマに感極まるときもあるけれど、ちょっとした雑談のネタになるようなきっかけは、客観的にものを書くために必要になる。絵や文を書いているときは、どうしても手が放せないし、政治的な関心も薄れてしまう。そういったときになりたくてそうなっているかはわからないが、どのグループにもジャイアンのようなリーダーがいて、その人が誇りに思えるような、気だてのいいキャラクターや、ちょっとかわいい女の子がいると、まあ続きを書けということになる。

戦争のように山場のある話は、あまりリアリティがなかった。弾がでるシリンダーが動いているニーズがない。フォークソングやあさま山荘の事案でも、僕が生まれる前で、ハイドライドやウィザードリィという機材を部屋に抱え込むようにパソコン通信をたしなむひとでなく、マウス一つでもマッピングができるようになったイースでさえ生まれる直前で、小学校の二年生の時にイラクがクウェートに侵攻して湾岸戦争になったというくらいで、それは当時の先生が疎開のまねごとをしていた。昨今ではF-35が青森で墜落したり、イージス艦が漁船と衝突したりという不祥事もあったが、イーグルやブルーインパルスはパソコンがタイプライターがだったころから空を飛んでいる。

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巷の素描

男性構成比が放送作家という業種が仲間内でスラングのように使うセックスという言葉は、異性が交わるというそのままの意味合いではどうやらないようだ。また、そのようなざっくばらんなやり取りが滞ると、大げさに少子化うんぬんと言ったりもする。ともかく、クラスで一人はいるような人気を取ったり、他人から注目されたいという性格がある。

SNSではとっつきにくい専門家より、多少チグハグなところがあっても、寛容なパーソナリティのほうが、巷を明るくするという。とはいえ、発信元の本人が詭弁を弄し、人の性であるかのように、世間一般はではなくで、あなたがでしょうという、太宰治の問答のような堂々巡りになる。だれでも、得意げに当たり前といえる分野があれば、専門家でなくてもセミプロのようになれて一目置かれるようになりたい。しかしながら、どのような世界観かと尋ねると、織田信長かアドルフ・ヒトラーや第二次世界大戦という、およそお笑い芸人や放送作家のイメージとかけ離れた極端な例だった。そういえば子供でも怖がったりする、もしそこそこ判断力のあるマセガキだったら、振り向いてくれないとして、どんどん狼少年のようになる。満たされない心が、苦労の後に幼稚なキャラクターをひそめる。

芸能関係では、演者も目立つけれど、それを収集する編集者もまた、舞台を支える。とはいえ、編集者は定年の65歳をを過ぎた権威がおり、その界隈では徒弟制度がまだ残っているのか、あるいは、編集だけではオリジナリティが出しにくいのか、喫煙所で交わされるような、愚痴に関係者が合わせている。

また、高齢者の麻雀のサークルが、にわかに雰囲気を粟だだせると、関係ないとはおもいながらも、高齢者層が英雄譚を語り始める。それは若い層が関心がないのか、高齢者が干渉してくるのか、なんともいえない。

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