検索と辞書

分からない単語があると、インターネットのGoogleのキーワード検索を繰り返していたが、検索エンジンでも実際には辞書の索引を引用している。もし任意の書類やPDFにキーワードを検索する機能があれば、便利だけれど。そうするためには、あらかじめ紙媒体の資料をデジタル文字にスキャンして、それを連想配列のように升目に登録しておく必要がある。そのようにして頻出する単語は利便性がある。また歩いているときに辞書を持ち運ばなくて済むようになっている。Google検索も断片的な情報を体系化することに長けている、正確なデータでなくとも、SEO対策によって、書籍やお店が広告用のキーワードを一方的につけて、利用するユーザーのアクセスによって、必要な単語が最適化される。オンラインショップのamazonでは、ロングテールという、比較的マイナーな商品が少数ではあるが、宣伝広告を介さない形でも、その場所を覚えているか、または検索キーワードでアクセスすることで、細々と存続するケースがある。当初はamazonでもその在庫を把握できずに、ドメインを国内ならamazon.co.jpでアメリカならamazon.comに指定して、キーワードをGoogleで検索することがしばしばあった。しかしながら、やがてはAmazonにも専用のキーワード検索ができるようになった。もともとはAmazonも雑貨を扱うお店で、インターフェースも可読性よりも、丸みを帯びたおおらかなフォルムでカテゴリを充実させていくというどちらかというと規則性や網羅性はそこまで重要視されていなかった。

Googleのキーワード検索も、創業者のペイジが、Yahoo!の日本でいうタウンページのような電話帳に付箋のような形で広告Adsenseを端に足すもので、それがキーワード検索とは直接は関係ないが、広告収入になった。Googleはキーワード検索が無料ではあるが、国内のデータベースで行うと、設備費や維持費をまかなうための従量課金の仕組みをとる必要がある。amazonのDBである、AWS(amazon web service)でも、SNSの画像や動画ファイルなどの倉庫としてつかわれているが、実際には維持費が掛かっている。そういった意味では普段よく使うものだけでなく、多様性の特長を見つけることが必要になってくる。しかしながら、もし電子辞書や電子書籍に索引だけでなく通信用のWiFiがあったら、翻訳機のポケトークのように録音機能が無かったとしても、連想的に意味合いを広げることができそうだ。しかしながら電子辞書には情報をコンパクトにして持ち運べるようにするという意味合いがある。

または、もしコマンドラインでGrepのようにキーワード検索ができるすると、配列でキーワードが帰ってくる。簡単な卓球のようなだけでも、情報を網羅することができる。しかしながら、もし検索エンジンがGoogleの介在がなく、直接辞書を参照すると、それはさながら一種の物語のようではある。必ずしも必要な情報ばかりではないが、連想を材料をアナログに組み合わせることができる。

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OpenStreetMapと町並み

Leafet.jsはOpenStreetMapというオープンソースの地図を使っている。NHKの教育番組にブラタモリという地理のニッチな雑学ネタをバラエティ番組にお織り込んだ教養番組があったけれど、それにちなんでか、中央区大伝馬町を題材にしたブラ町MAPづくりという散策の企画があった。転職に伴って、とりあえず平日は図書館で新聞を読むことからはじめて、毎日新聞の連載小説をよんだりしてネタを探した。2017年の12月くらいには、人形町では改築が時期が重なり、図書館やマンションでも工事の足場や作業の音がやむことがなく、もしあのガタガタという音が無かったらなあと当時は何度も思っていた。景色も足場ばかりで前が見えず、そういうときこそじっくり文献に当たればいいものをどうにも気が散る。改築前のエレベーターホールにチャリティや観光協会のブラ町MAPづくりのチラシがあり、十思公園まで浜町から歩いて行った。この辺りは祭りの時期になると、郵便局が協賛して、大通りで屋台が組まれる。歩行者天国といえば銀座や秋葉原が印象的ではあるが、大伝馬町でも自動車が通行止めになる時期がある。江戸時代の飛脚や旅籠にちなんで、小伝馬町・大伝馬町と名付けられた。また郵便ポストで見慣れた鮮やかな赤色でない、鈍い青色のポストがある。全国にも数十本しかなく、珍しいポストだという。

メモも盛んに取っていたけれど、2年半くらい立つと、どれだか分からなくなっており、iPhoneのアルバムの日付から明らかになった。記憶ではたしかMAPは、GoogleMapでなく、地域で書き込むができるOpenStreetMapを使っている。その場合、活力というおにぎりのお店があり、看板にはカタカナで、シチロカと書いてある。活力を漢字のパーツに分けたパズルのようなものだ。また大伝馬町にはキハという鉄道車両の記号にちなんだ、鉄道ファン向けのバーがあり、それはGoogleMapにも詳しく載っている。

自動車が通り、中央分離帯という歩道がある道路ばかりではなく、中央区にはマンションや雑居ビルの間に通り道があることもある。こういった町割りは、自動車でなく人力者や飛脚が通っていた江戸時代の長屋の町割りに近い、江戸は徳川家康が幕府を移転するに際して、大阪の堺の町人のインフラを活用した。そのため、表通りは大通りになっているが、裏通りには店や長屋が隣り合わせになっている。また、銀座の木挽町などではその性質が色濃く、まるでロールプレイングゲームにあるギルドのようになっている。

また、たとえば空き地に裏山があったとしても、国土地理院のデータでは標高が十分でなければそれは山にならないけれど、そこに居合わせたとすると野山を駆け回った経験が残る。もしコミュニティで地図にコメントが残せるのなら、そういったそこにしかない独自の地形や家というのも在りうる。それはお店が会員制や料金制という約束事でなく、敷居が低く訪れるものを拒むことがない。また通りにもベンチが置いてあり、道行く人に居場所を提供している。

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チートに頼らないモノづくり

mineCraftのアイテム増殖バグを使ったテクニックで、TNT火薬を増殖させて、飛行ブロックで上から爆撃するというチート行為があった。アイテムの増殖は背景には、アクションやシューティングゲームのようにボタンを押すと反応する紙芝居のようなプログラムと、シュミレーションや育成ゲームのように、画像が消去されないという性質が競合しているためと考えられる。子供向けのスクラッチでも、シューティングゲームを作るときは、弾はタイムラインで、当たり判定に接触したり画面の端に達しない限り理論的には無限に増殖される。アニメーションでも漫画家やイラストレーターの原画をアニメーターがトレースして複製しセル画をタイムライン上であたかも動いているように見せる。ゲーム上で、リアルマネートレードなどの、希少価値のある金やダイヤモンドを増殖させようとするプレイヤーにとっては、アイテムは増殖した方が利益になるけれど、僕のようにブロックを空に羽ばたかせたいと目論んでいる変わり者には、アイテムは増殖すると墜落の原因になるので、mineCraftのバージョンアップで脆弱性を解消してほしかった。

かつてはmineCraftにも現場監督と作業員のようにチーム分けがなされていた。コミックマーケットで、これは買い物中心になるが、耳寄りな情報を集める斥候とそれを束ねる司令塔に分業されていた。一種の階級のようなものがあった。僕はそのどちらにも属さず、ひとりで集めて、またひとりで考えるぼっちだった。それだけにひとりでは領土的な国家より個々が独立した連邦制のほうが、派閥の力関係に翻弄されず居心地がよかった。だれでも使えるような汎用的な仕組みが大切に思えてくる。またこれは数年前になるが、mineCraftに現場監督がいたときのwikipedia(https://www26.atwiki.jp/minecraft/pages/138.html)では、ピストンと粘着ピストンを繋げて、ベルトコンベアのように大量にレールを作り、動くエスカレーターのような設備を作っていた。それによって、労働集約的に手間を掛けられるようになったので、世界遺産や産業設備のトレースをしたりと、実際には冒険のゲーム性もあったけれど、建築が疑似体験できるとして、wikipediaはその設計書のように充実していった。その最後の項目には、むしろ無人でも動くようなミニマムの粘着ピストンと変化を感知するオブザーバーの互い違いの組み合わせがあり、これがパンドラの箱のようになったと思われる。はじめは設計を読まずに、それを壁から壁に動かしていたけれど、あるとき、片方のブロックを手動にすると、一マスずつ空中を歩いている。これによって空中に橋を渡したり、足場を必要以上に組まないでも橋を架けることができるようになった。

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欲の分類とアイデンティティ

Amazonでの買い物より、散策によって、建物や街路樹の様子や、スーパーマーケットやコンビニの棚でリーズナブルなものを探すのが息抜きになっていた。Amazonでは、そういったところでは手に入らないけれど、なんらかの理由で必要になったものを買っていた。例えばそれが成人向けの雑誌やDVDであれば、欲望としては分かりやすく、そういったものがもし遅延すれば、おじさんがもっている童心では悔しい思いもするが、それはあまりにストレートすぎるのか配送員も、素知らぬフリで届けてくれた。

むしろ困るところは、ありそうでなかった品物が届かなかったときで、例えば備え付けの洗濯機や電子レンジと同じ幅の棚などは、それが届かないと部屋が片付かない、部屋が片付かない様子は知らない人には興味はないはずだけれど、受けると前と後で、部屋のレイアウトが変わる。しかしながら整理棚やメタルラックがスーパーマーケットやホームセンターにないわけではなく、不満ならそこで自分で足を運んで買い求めればいいということになる。インターネットがない時代に隣町まで安い、あるいは特長的な日用品を買い求めるあまり、帰り道で転んだりして、レジ袋の中身がこぼれるといった感じのありがちな癖が、インターネットという仮想空間でも代替として存在するのかもしれない。

当日にはドライバーの予定が受付からでは分からないというのは、ここ数年で聞いた新しい問題で、そうなる待っていることに体力をつかう。かつては不在票を素早く入れて、家で待っていてもそれが届かないということがしばしばあった。それだけ平日が忙しくなったのか、通信手段が増えて便利になったのか、問題は存在しながらも悩みかたを変わっている。

googleMapでスマートフォンで位置を確認しながら歩くと、道をあまり見なくなって、かえって迷いそうになることがあった。Wifiの疎通が安定していれば、リアルタイムで地形とGPSが連動して、空間が立体的に把握できるけれど、SIMカードのパケット通信量を動画閲覧に振り分けていたり、壁や地下鉄などの電波が制限される場所では、現在地が分かりそうで分からないという、もどかしい状態になる。そういったときに迷いやすくなる。

また、メールの要件に優先度を考えずに枕詞のように至急と付けるのは、ビラ配りにある急募のようで、具体性がなく一方的で戸惑う、宅配便では、待っている方がしびれを切らして、そんな急かすような対応をして相手を困らせるという印象がよぎる。あるいは、もし人手が足りないのなら、当日配送は無理という旨の連絡を事前にすれば、その時間はなにか指示を受けて拘束されているわけではないけれど、自由に動けるようになる。珍しいことに当日配送が間に合わず延期になった例は、国内では数百の注文のなかでも数えるほどしかない。電車よりも宅配便のほうが、意識している部分はある。

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寄り道でのできごと

ここ数年で妙なジンクスがあった、電車のホームを乗り間違えたり、一駅乗り過ごしたり、または、見知らぬ乗客の足をうっかり踏んでしまったりすると、不思議とその日のコミュニケーションはしっくりこない。どういうわけか相手もなぜか電車のホームや道に迷ったことを知っている。少しでも状態が悪くなると、その流れを引き戻すことがやりづらくなる。しかしながら、では僕はそういった転ぶことがなければ、上手くいっていたかというと必ずしもそうではない。転んでから、転ばなければ痛くなかったと条件が分かるくらいで、まっさらな状態が健全という保障があるわけではなかった。

とある小包を郵便局が受け付けるのに、都内であれば当日から一日で、千葉市になると、二日以上かかるという。とはいえ千葉県は内陸になれば数時間かかるが、千葉市であれば東京から千葉に隣町から乗り継いでいくことができる。もし電車を目的地と終点だけを往復していたら、寄り道のシチュエーションもあるかもしれない。とあるデザイナー事務所では、メールや電話を受け取るときはつねに最悪の状況を想定していると、そこから良くなるだけだからというアドバイスがあったが、すると必要以上に緊張しがちになり、対応がギクシャクしてしまう。そういったときに自分から自由になることは気が引けるが、片の力を抜いてリラックスするようにとどこかに書いてあったと、自分に言い聞かせてから、それから誰かに言うことにしている。

例えば、各駅停車でしか降りられない駅では、穴場がしばしばある。それほど混んでいないけれども、生活用品を並ばずに揃えることができたり、カフェや理髪店の予約をとったりできる。店側からすれば行列にならないので、あまり売り上げにならないかもしれない。山手線にも各駅停車の乗換駅があるというのは、僕はそこまで人付き合いが得意でないので、素直に分からないと答える。

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巷の素描

男性構成比が放送作家という業種が仲間内でスラングのように使うセックスという言葉は、異性が交わるというそのままの意味合いではどうやらないようだ。また、そのようなざっくばらんなやり取りが滞ると、大げさに少子化うんぬんと言ったりもする。ともかく、クラスで一人はいるような人気を取ったり、他人から注目されたいという性格がある。

SNSではとっつきにくい専門家より、多少チグハグなところがあっても、寛容なパーソナリティのほうが、巷を明るくするという。とはいえ、発信元の本人が詭弁を弄し、人の性であるかのように、世間一般はではなくで、あなたがでしょうという、太宰治の問答のような堂々巡りになる。だれでも、得意げに当たり前といえる分野があれば、専門家でなくてもセミプロのようになれて一目置かれるようになりたい。しかしながら、どのような世界観かと尋ねると、織田信長かアドルフ・ヒトラーや第二次世界大戦という、およそお笑い芸人や放送作家のイメージとかけ離れた極端な例だった。そういえば子供でも怖がったりする、もしそこそこ判断力のあるマセガキだったら、振り向いてくれないとして、どんどん狼少年のようになる。満たされない心が、苦労の後に幼稚なキャラクターをひそめる。

芸能関係では、演者も目立つけれど、それを収集する編集者もまた、舞台を支える。とはいえ、編集者は定年の65歳をを過ぎた権威がおり、その界隈では徒弟制度がまだ残っているのか、あるいは、編集だけではオリジナリティが出しにくいのか、喫煙所で交わされるような、愚痴に関係者が合わせている。

また、高齢者の麻雀のサークルが、にわかに雰囲気を粟だだせると、関係ないとはおもいながらも、高齢者層が英雄譚を語り始める。それは若い層が関心がないのか、高齢者が干渉してくるのか、なんともいえない。

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水苔と鮎

実際の店舗になると、直観的に欲しいものが陳列されているとは限らない。ネットショップのように倉庫が別に付いているわけでなく、また地縁によるところもある。かつて生協でアルバイトしていたころには、ジャガイモの袋詰めや棚にパッケージを並べることに遣り甲斐を覚えたこともある。

図書館でテラリウムという透明な瓶のなかで苔を育てるアイデアがあった。水苔は別の草木の保湿のためのマルチングで使うことがあるが、水苔は室内でもやがては干からびてしまう、瓶の中に入れておくと水苔から蒸散した水分がなかで霧になって、水分が循環する。そこで水のろ過に使う竹炭と、関西で自生する水生植物の水苔を瓶のなかに保存するという。家電メーカーのエンジニアはガラス瓶浄水器として、竹炭の多孔質の材質を利用して、上から水を灌ぐと下の蛇口にろ過された水が溜まる。ガラス瓶にしたのはプラスチックに比べて温度変化に強く、透明なのでなかでカビが生えたりすると点検しやすいという実用性を兼ねている。水苔の栽培だけであれば、同じように透明で光を通し、衝撃で割れないプラスチックの保存容器に竹炭を敷いて、棚で栽培していると光が当たる方向に伸びてくるので、ベランダに移動した。生の水苔は関西に自生する天然物で、乾燥した水苔はホームセンターでも売っている。水苔には養生という性質があり、ホームセンターの乾燥水苔に水分を含ませて、生の水苔が入った瓶に添えると、緑色が一部は蘇ってくる。とはいえ、数か月たってもすべての乾燥水苔が復活するとは限らず、一部ではあったけれど生命の不思議を実感した。船堀のダイエーでは一人暮らしを始めたころに家具や調理器具を揃えた場所で、そこでは必要十分なものを揃えるくらいで店に立ち寄っていったが、DIYのときに実際に店に足を運んだときの体験が、具体性を持ってくることがある。例えば蓄電池を保存する棚はキッチンで食器を干すためのステンレスの棚が高さが30㎝くらいで丁度よく、上にものを載せられる。

水苔は保水性があるので、ガーゼやスポンジの代わりにも使われている、また食用にもなる。しかしながら、水苔が日に日に少しづつ伸びる様子に見入ってしまい、ついつい食べるのを躊躇って二年くらいたった。はじめは焼きそばパック1個500mlくらいだったものが、土や竹炭を含めて4lくらいになっている。容器のなかではハーブ用の土を入れたものもあり、竹炭をいれたものより水苔の育ちがよかった。水苔にはカイミジンコなどの小さい生き物が住処を作っていたが、もし食べる時には洗って煮沸する必要がある。水苔は茹でても嵩が減らず、色も鮮やかな緑のままだった。味はあまりないけれど癖もなさそうだ。瓶のテラリウムでは、数か月の間季節が変わっても常に鮮やかな緑であり続けたので、それに比べると茹でたときの感触は印象があまり濃くならなかった。葉緑素を食べるのに水苔は適している。微生物のミドリムシをサプリメントに応用するというバイオテクノロジーがあるが、水苔とテラリウムも場所を取らずに自然を再現できる。植木鉢の場合は、水はけが良すぎると、地植えと異なり乾燥しがちになる。

また、川魚の鮎は緑がかった鱗が苔の色合いに似ている、あるいは川岸に水苔が自生していれば食べるかもしれない。鮎をスーパーマーケットで買ってきて、キッチンでワタを取って、腹開きにする。鮎の姿ずしにするときは中骨も取る必要があるので、手で小骨を取る、サンマのように背骨を取るときれいに身と骨が剥がれるとは限らず、いくらかは小骨がのこっていた。ワタを取った代わりに食べ物の水苔を詰めると、案外不自然でなかった。なるべく表皮を傷つけずに、調理したかったので、東南アジアのように魚を煮て調理することにした。

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シュミレーションゲームの具象

Civiliization2はドットグラフィックのシュミレーションゲームでは進行度や一覧性がよく、囲碁や将棋のようではあるけれど、アイコンによって具体性がある。とはいえ、僕自身それがシュミレーションという性質上、フィクションの世界で、誇張されている部分も少なからずあることを踏まえて、海外のゲームが、ファミコンやプレイステーションのゲームと同じようにマウス一つで、ボードゲームができる。地図には役割や資源によって分類されているが、どちらかというと地図や等高線のようで、まるで駅前の案内図を説明するようで分かりやすい。また、具体的な地名や場所で相手を案内するときは、その時点で拡張現実のようなイメージが湧いている。WindowsがXPから7、そして10にアップデートされると、従来のcivilization2はvirtualBoxのwindows7のエミュレーターで動いた、civFanaticという海外のファンサイトにCD-ROMのイメージファイルがダウンロードできる。ブラウザゲームのfreecivというゲームもあるが、ゲームの進行や奥行きは似てはいるけれど、CD-ROMのcivilization2のほうがコンパクトに収まっている。ブラウザのスペックは携帯機器のPDAとは比較にならないほど高性能になっている。それでいて動きがもっさりするのは、バランスやコンセプトによるとことがいくらかありそうだ。将棋やインドや中国を経て日本に伝来したが、そのコンセプトは陣営で戦いをするものだ、とくに将棋は苛烈で、勝敗が決まるまで行われる。実際には、補給が尽きたり、士気が維持できなくなった段階で、興和なり交渉することの方が建設的な発想といえる。とはいえ将棋は抽象化されているのでスポーツともゲームとも言えないジャンルになっている。しかしながら、将棋から初心者がその醍醐味をくみ取ることは難しく、直観的でないことが多い。例えばスマートフォンには機能がたくさんあるが、極端には説明書を読まなくても、感覚的に使い方を理解してくれる。ゲームにはドットグラフィックでも拡張現実でも、将棋や囲碁にないような、補助的な要素を補う。たとえば野球では、ピッチャーはほぼ通しでボールを投げつつけ、守備も攻撃もする。チームは11人いるが、マウンドの一部を守っていたりと参加するチームにボールが均等に回ってこない、それに比べるとサッカーやバスケットボール、卓球は比較的スキルや経験値には野球よりばらつきがあり、その上、運と言う不確定要素が付いて回るが、チャンスは均等化される。将棋とシュミレーションゲームにもそのような敷居の低さが魅力だと思っている。子供頃のファミコンのソフトのゲームコーナーでは、任天堂のゲームが人気があったが、ヨッシーアイランドや星のカービィは、ロックマンに比べると、落とし穴に落ちてもしばらくすると立ち直り、プレイヤーが七転び八置きするドラマが垣間見えて、なかなか順番が回ってこないということもあったが、ひとたび順番になると比較的ながく冒険ができるので、ゲームバランスについて考えるいい機会になった。

Civlization4は、2に比べると、ドットグラフィックは3Dになり、地形もより立体的になり奥行きもある。ニコニコ動画の実況では、UIがシームレスで分かりやすく、自動車教習所の高速道路シュミレーターのような未来性があった。しかしながらWindows7でも10でもレジストリかなにかが引っかかって、インストールはできても動作しなくなっている。そのゲームエンジンを継承して、アメリカ大陸の独立をテーマにしたcivlization 4 colonizationはCD-ROMをセットにすると、互換モードで動作して、音もクリアになっている。パソコンの3Dゲームは、僕はMayaやUnityは経験がないが、windowsXPである種の到達点がある。スカルピー造形という彫刻に近いようなレンダリングにwindowsXPの紙芝居のようなファイルやブラウザが画材のように調和していたのだと想像される。

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近代の変わり種

SNSは痴話げんかを疑似体験するために、つねにブラフや脅しがあり、僕はフォロワーから外れていたが、それを影響される人もわずかながらいる。道徳でヒットコンテンツをだそうという作家ではあるが、実際に文献にあたったほうが良さそうだ。昭和的な価値観は、昭和人によってアップデートされてきた。カリフォルニアロールやカラオケ、全自動卓、卓上電話などで、もしそれらを抜きにして見ると、江戸前寿司、演歌、手摘みの麻雀、黒電話などになる。そういったものがむしろ物があふれた世の中にあって、かえって新しいという価値観は実は平成的なものだった。ファミコンが子供たちの文化な遊具として教科書に載ったのは平成からさらに令和になろうとしたところで、ファミコンのソフト自体は昭和からあり、脈絡も昭和だった。

いずれの伝統もそれが為されるときは、新しかったという、江戸前寿司に魚以外に野菜やマヨネーズが入ったのは、GHQの統制の影響だったという、キュウリやのような淡泊な野菜に海苔を撒いて魚のようにしたのもそのあたりからだった。どこまでカルト的な触れ込みに感化されたか、定かでないが、おニャン子クラブの後書きに、うちでは伝統的な江戸前寿司のようなものばかりでなく、ときには変わり種もある、アボガドロールのようなという。あの軽妙なノリが僕にはよくわからなかった。またどういうわけか、メモ欄もあり、そこに読者が思ったことを書くようなものだった。ところが、そこにアーリーアダプターになったファンには、むしろそれによって少なからず困惑したので、できる限り文脈を関係者の楽屋内で固めようとしたという。現代語辞典イミダスには、そういったアイドル文化がある、しかしながら当のアイドルは、群雄割拠になっているためか自らがアイドルであることを公言することは珍しく、なにがしか職人的に地に足を付けたいと考えているという。

カラオケは、意外なことに振り付け師や、発生指導の専門家が別にいるとおもわれるが、なぜか素人にも歌いやすくなっている。地方の自動車教習所にいくと、マイクを握るのは目立ちたがり屋だけというような風潮もあった、というよりカラオケと漫画ぐらいしか娯楽がない、さいとうたかをのゴルゴ13は、作者が理容師というよりは男性の角刈りを専門にするような床屋で、物言わずとも待合室にはゴルゴ13のシリーズがシェーバーや櫛と並んで置いてある。とはいえ、ゴルゴ13というフィクションに床屋が出ることは殆どない。目元や眉毛の雰囲気がどことなくカットモデルに面影がある。

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青空文庫 遠野物語から

柳田国男の遠野物語をkindleで読んで、手持ちのiPhoneに感想を書いてみることにする。同人ソフトで購入した東方シリーズにも東北の民俗学が影響しているという。あるいはkindleだけで手書きのメモだけでも良かったが、ちょうどWordとリチウムイオンバッテリーのワイヤレスキーボードがあったので、偶然、青空文庫で本のなかを探検しようという試みになった。

遠野郷のトーはアイヌ語の湖という語より出たるなるべし

遠野郷は、奥州で東北地方にあるところだけれど、語源は日本だけのものではないようだ。北海道にはそういった当て字のような独特の地名があるけれど、一見漢字のように見えても音訓が異なるのは、なにか所縁がありそうだ。しかしながら、のどかばかりでもなく、

黄昏に女や子供の家の外に出ているものはよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。

人ならぬものが、黄昏時には女や子供をさらっていくという言い伝えがあるようだ。人べらしという東北の風習があったけれど、それとなにか関係があるのだろうか。

ザシキワラシ座敷童衆は旧家に住んでいる、人ではなく神の類だという、実際にそれを見たという記述はなく、ある日廊下で出くわして大いに驚いたという。どうしてそれが座敷童衆だと娘が分かったのか、想像の余地がある、それによって御利益があったとしても、運命があざなえる縄のようだったというようにも思われる。

川には河童が多く住んでいて、川の岸の砂の上には河童の足跡というものを見ることは珍しくなかったという、空想上の動物でも伝承ではまことしやかに伝えられている。頭に皿があったかは定かではないけれど、猿のような手で水かきがあるような独特の手の形をしていたという。

遠野の山中の不思議なる家をマヨイガという。

旅の途中で迷ってあるはずのないところに住処があり、なにがしかの人が住んでいる様子だった。それくらい道に迷うほど、人里が離れていたのか、あるいは都会やムラ社会のように住んでいる人が漏れなく把握されているという状態ではなかったのかもしれない。地図にないような場所に住処があるとまるで桃源郷のようにも思われてしまう。あるいは人が旅をして目的を探すイメージがマヨイガというキーワードになったのかもしれない。

ニタカイはアイヌ語のニタトすなわち湿地より出しなるべし。地形よく合えり。西の国々にてはニタともヌタともいう皆これなり。

川のほとりに集落ができることは地勢しばしばある、関東でも平地では湿地帯になり、そのままでは田畑を耕すことができず、交通や飲料水は確保できても、住みやすいとは言い難い地域もある。ニタカイは煮た粥にも例えられるようになったという。

船越の漁夫何某。ある日仲間のものとともに吉利吉里より帰るとて、

吉利吉里と遠野郷がどのように関わるかがわからないが、女の妖怪か幻か、山路にて何とも知れないものに脅かされて、命を取られると思って目覚めたという、どこまでが空想で、どこからか現実かはさだかではないが、吉里と切るという連想からか、そういったおどろおどろしい伝奇に尾ひれが付いていったのかもしれない。

南部という、東北地方の岩手県のあたりには、地理だけでなく言い伝えから独特な空間が形成されている。とはいえ、その地域だけに特徴的ならば、単に荒唐無稽なだけになっていて印象は薄くなっていたと思われる。江戸時代とも明治ともつかずに、時代の変化から自然とその地域にならではの時間の流れがあり、それは現代人にも同じような体験があるかもしれない。実際にはそこに旅をして見たり聞いたりしたわけではないけれど、あたかもそこになにものかが存在するかのように思い込むようになる。

参詣の路は林のなかにあり、登口に鳥居立ち、二三十本の杉の古木あり。その傍にはまた一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。

愛宕山には雑木林のなかにお参りの路があったという、遠野郷には山の神様を祀るモニュメントが自然と人里の境にあり、祟りのような理不尽な出来事をなだめるように建てられたという。参拝にも不幸を鎮めるという意味合いが、残っている。それが人里離れた自然にあると、大人でも子供にも言い表せないなにかがそこにあるように思われる。

神や妖怪とはなにか僕には正直なところわからない、言い伝えにあるとすれば、勘違いや思い込みもないわけではないが、そうさせるだけの不思議な相関がありそうだ。

僕は現実には思い込みをなるべく平明にして、僕自身そこまで賢くはないけれど、言い伝えから今までに見たことがない世界があることが新鮮だった。21世紀になっても寝て半畳起きて一畳という生活形態は改善されていないが、なにか分からないことを明らかにしたり、独自の解釈があることを共有するために文章を書くことを、試してみたくなった。僕の所感だけでなく、人の営みには由来があり、知られざる分野を明らかにすることと、考えを記録したり、記録から当時のようすを演繹することを続けていきたい。