科学と物理を橋渡しする仕組み

銅は熱伝導性が金属の中で高いけれど、一般的には鍋にはステンレスなどの鉄やアルミニウムが使われている。銅では熱が伝わりやすいので、均一に熱が伝わりやすいが、熱しやすく冷めやすいという性質がある。アルミニウムではアルミ箔で包んだジャガイモなどは熱が銅のように通りやすいという性質をつかっている。自宅のベランダでも蓄電池からIHクッカーにアルミニウムの鍋を付けて、炊飯をしたりしていた。なかにはコメから白い煙がでる富山県産の無洗米でない米があり、味だけでない炊事の体験ができた。とはいえ、飯盒があればアルミニウム拍だけでも太陽光を集めて熱を作り、ソーラークッカーという電気を使わない設備でも調理は可能だという。直流の電圧が、パソコンの専門メーカーでも出力が家電ほど上げる必要が無い中で、キッチンで無い場所で乾燥ヌードルや水パスタなどに端を発し、手軽に机や空いた場所で調理できるのは、安心感がもたらされる。確かに設定を工夫して炊飯できるくらいの出力を確保することも労力を要するけれど、マクスウェルの電磁法則もフィールドワークで得られたという逸話があるし、可能性を探求することで、それが見つかった時に自分だけでなく誰かにも使えるようになる。ガスコンロの代わりに電気を使うことでも熱を生むことで温かみを確保できた。または銅やアルミは空気や水の流れと合わせると簡易的なクーラーにもなる。

銅やステンレス二重タンブラーを使った熱を集めるものは、科学というよりは物理学に属するのかもしれない、それだけ銅はコインなどでは比較的潤沢だけれど、パソコンなどを冷却するヒートシンクでは数が少なく珍しい。ペルチェ素子ではアルミニウムの水冷ブロックを使うことで、ペルチェ素子のブロックを小型化することができた、そこでさらに熱伝導率が高い銅の水冷ブロックでまた試して見ようと思う、また銅はアルミニウムに比べて参加しやすいけれど、酸化銅には毒性が無いので、水や空気を冷やすこともできる。もしその性質で銅の鍋があればと思ったがおでんの鍋や卵焼きパンのように、温度を均等に伝える用途で使っている。もしそれらですき焼きを作るように米を焚いたら、炊飯器より素早く調理できるかもしれないが、シチュエーションが思い浮かばない。また鉄は熱伝導性は高くないが、比熱という熱を保つ要素は高い。もっとも比熱が高いのは水で、お湯を沸かして、入れ物にいれるという行為も熱を形にして運んでいることになる。電気が無かった江戸時代にも、熱湯で魚を湯霜という加熱する調理法があるがこれも比熱を利用したものだ。または床暖房のようにパイプにお湯を通して床を温めるのも水が温度を保ちやすいという性質による。とはいえ。お湯が湯気をだして気体に変わると温度が冷めていく、冷蔵庫ではお湯のほうが水より湯気がある分氷になりやすい。ホッカイロを衣服の中にいれると中から少ない熱で温める。その性質から、USBの5Vから二重タンブラーなどの密閉した容器に熱を貯めたり、またはペルチェ素子を水冷ブロックと合わせて、二重タンブラーに入れると空気中の水分が霜になり、やがて氷になる。ペルチェ素子の冷蔵庫もあるようだけれど、ペルチェ素子自体は異なる二種類の金属に電気を流すと熱が低い方から高い方に移動する性質によるので、比較的静かだけれど、消費電力は比較的高い。規模自体を小さくすれば消費円力を節約することができるけれど。

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AndroidとiPhoneの特長

スマートフォンをiPhoneからAndroidに替えるにあたって、いくつかの課題があった。iPhone6sはバッテリーの容量が1750mAhで、単三の乾電池およそ4本分だけれど、年月が経つうちに容量が不足してきた、とはいえフル充電すると、半日は電池が持つ。Google Pixelと相性のいい、ankerは容量はiPhone6sを5回くらい充電できる容量のものもあるが、残量はパーセントでなく、8段階の表示になる。コンセントから充電する分には、それでも十分に容量があるが、どのくらい充電されたかが、分かりにくい。また、iPhoneやandroidでも液晶画面の大型化とCPUの高性能化に伴って、消費電力は相対的に上がっている。またyoutubeにankerの非常用のUPS電源と、乗用車の助手席のシガーソケット12Vの電源でご飯を炊く、タケルくんというプラスチック製の炊飯器がある。それが連携した様子がなんともいえずシュールだった。炊飯器は合計電力が100W前後にする必要がある。車のバッテリーが上がってしまうためだという。タケルくんは見かけによらず、省エネにヒントをもたらしている。

また、iPhoneにはアプリケーションをインストールするのに、日本国内向けにローカライズしたものしかインストールできない、そのためセキュリティソフトなどでガードができない。僕もブラウザ経由で標的型のマルウェアに感染してたこともあった。カスペルスキーでも、専用のセキュリティブラウザという窓口を変えるくらいしか対策がなく、iPhoneは完成されているものの、拡張性が無かった。日本のiTuneStoreだけでなく、中国やアメリカのiTunesStoreでしかアクセスできないアプリケーションもある。そういった翻訳されていないものをインターフェースから意味合いを推測しながら海外の雰囲気を掴むのが僕は意外と興味関心が湧くところだ。

Andoidでは、apkのインストールが、容易になり、海外のアプリケーションを入れることも可能になるが、セキュリティソフトがプリインストールされていると助けになる。OPPO AX7にはavastがインストールされており、またブラウザごとにアプリケーションの許可を設定できる。バックパネルの緑が綺麗だったけれど、電池の容量とスペックのバランスで、Googleの検索やMicroSodtのWordが使えることを踏まえると、中古でCPUとandroidのバージョンが比較的新しいものを選ぶより、正規版を購入してそこから学びを得ようと考えた。GoogleのキーボードGboardは、フリック入力よりQWERTYキーボードの配列のほうが片手でも入力しやすいと感じた。キーボードの一列目のアルファベットの頭文字がQ,W.E.R.T.Yであることに由来する。とはいえ、スマートフォンを横にすると、画面の仮想キーボードが入力画面を圧迫するので、GboardからATOKに変更した。外部キーボードでは薄型のワイヤレスキーボードにしている。Androidでは、メニューアイコンが順番でなく任意の配置にできるので、待ち受け画面がアプリで散らかりにくい、また、iPhoneのようにアプリのアイコンを複数まとめて分類することもできるようになった。文章を入力するときは、wordの画面のズームが入力時に前後するのでそこが気になったくらい。iPhoneでは、外部キーボードをペアリングすると、入力時の仮想キーボードが出なくなるので、パスワードやキーワード検索が、キーボードに集約されるので、小回りが利かない。しかしながらキーボードで文字を大活字本くらいに拡大して、一行ずつ入力していくと文房具のポメラのような書き味があり、昨今のappleでは液晶が大型化してスマートフォンとラップトップPCの連携が図られているけれど、手に馴染む大きさのiPhoneSEを復刻したら、懐かしくて新しいという発見がある。

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パーソナリティと現代の歩み

ぼくはあまりアイドルは分からないが、バラエティ番組は小学校のクラスで目立ちたがり屋がよく引き合いに出していた。いじられた側は端から見るとなにが起こっているかわからないのに、引け目に感じている。そういうときはなるようにしかならない。印象深かったのは、アシスタントディレクターは、テレビの端に待機している、そこでタレントがざっくばらんに語る。いじりがきっかけで筋力トレーニングを趣味にしたといとう男性歌手もいる。なにがおもしろいのかよく分からないが、ベースのフレーズを部分を口ずさんでカラオケを強要するという箇所もある。小学校の放送室にはカセットテープやレーザーディスクといったウォークマンなどの再生設備でなく、定番では登下校にパッヘルベルのカノンを流したり、昼休みにはゴーストバスターズのイントロを流すという、作業だったけれど、なぜその曲なのかはあまり深く考えたことがなかった。それこそ無意識で人気を取っている。

とんねるずがデデデーンとイントロを口ずさんで、歌手が気恥ずかしそうにしていると、バチコーンとディレクターがこづかれる。バチコーンは当時のガキ大将の口癖になっていた。

またあるときクリエイターを目指すような人たちの集まりで、渋谷のスクランブル交差点を見下ろすような定点カメラを起きたいとして、案としては月並みだったが、まるで芸人みたいなバイタリティで、それもいいかもしれないと乗ってみると場が和みそうだった。そのようにして、渋谷の交差点を栃木の映像同好会が、まるで現代版の日光江戸村のように映画のセットにすることになったという。ぼくにはすでにいくつか名作があるのに、そこまで映画化にこだわる理由が分からなかった。当時のテレビは映像技術は優れていたが、既存のマンガをリメイクしたものが多く、相棒のようなシンプルで強いメッセージ性があるオリジナルドラマは少なかった。かくいう相棒も実際には短編でまとまるようなコンセプトをあたかもウナギ屋がタレを継ぎ足しするかのようにして、奥行きを与えている。

ディレクターは、アニメやマンガが好きではないが、性的な絡みはないにしても意味ありげなメタファーがある、ジブリアニメは興味があると煙に巻いた。黒澤明がどんな人でも見方を変えれば主人公という象徴的な名言がある。

図書館では、僕が小学生だった頃は手塚治虫の番外編の陽だまりの木は、志村けんのバカ殿のようで、時代に沿ったまじめな描写だけでなくお色気も多少あって、ライトノベルが蔵書として本棚に並ぶ現代でも、魅力は色あせない。逆に火の鳥のギリシャ・ローマ編は僕こじんでは読み解けず、有名な人が書いているのだから絵も文も書けない僕が、評論しても何にもならないという先入観をなんとかフラットにしようと試みた。中国のスマートフォンでもアニメをモチーフにしたギリシャ神話のモデルがある。自分のというわけではないが、たしかにヒューマニズムを題材にしたドラマに感極まるときもあるけれど、ちょっとした雑談のネタになるようなきっかけは、客観的にものを書くために必要になる。絵や文を書いているときは、どうしても手が放せないし、政治的な関心も薄れてしまう。そういったときになりたくてそうなっているかはわからないが、どのグループにもジャイアンのようなリーダーがいて、その人が誇りに思えるような、気だてのいいキャラクターや、ちょっとかわいい女の子がいると、まあ続きを書けということになる。

戦争のように山場のある話は、あまりリアリティがなかった。弾がでるシリンダーが動いているニーズがない。フォークソングやあさま山荘の事案でも、僕が生まれる前で、ハイドライドやウィザードリィという機材を部屋に抱え込むようにパソコン通信をたしなむひとでなく、マウス一つでもマッピングができるようになったイースでさえ生まれる直前で、小学校の二年生の時にイラクがクウェートに侵攻して湾岸戦争になったというくらいで、それは当時の先生が疎開のまねごとをしていた。昨今ではF-35が青森で墜落したり、イージス艦が漁船と衝突したりという不祥事もあったが、イーグルやブルーインパルスはパソコンがタイプライターがだったころから空を飛んでいる。

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寄り道でのできごと

ここ数年で妙なジンクスがあった、電車のホームを乗り間違えたり、一駅乗り過ごしたり、または、見知らぬ乗客の足をうっかり踏んでしまったりすると、不思議とその日のコミュニケーションはしっくりこない。どういうわけか相手もなぜか電車のホームや道に迷ったことを知っている。少しでも状態が悪くなると、その流れを引き戻すことがやりづらくなる。しかしながら、では僕はそういった転ぶことがなければ、上手くいっていたかというと必ずしもそうではない。転んでから、転ばなければ痛くなかったと条件が分かるくらいで、まっさらな状態が健全という保障があるわけではなかった。

とある小包を郵便局が受け付けるのに、都内であれば当日から一日で、千葉市になると、二日以上かかるという。とはいえ千葉県は内陸になれば数時間かかるが、千葉市であれば東京から千葉に隣町から乗り継いでいくことができる。もし電車を目的地と終点だけを往復していたら、寄り道のシチュエーションもあるかもしれない。とあるデザイナー事務所では、メールや電話を受け取るときはつねに最悪の状況を想定していると、そこから良くなるだけだからというアドバイスがあったが、すると必要以上に緊張しがちになり、対応がギクシャクしてしまう。そういったときに自分から自由になることは気が引けるが、片の力を抜いてリラックスするようにとどこかに書いてあったと、自分に言い聞かせてから、それから誰かに言うことにしている。

例えば、各駅停車でしか降りられない駅では、穴場がしばしばある。それほど混んでいないけれども、生活用品を並ばずに揃えることができたり、カフェや理髪店の予約をとったりできる。店側からすれば行列にならないので、あまり売り上げにならないかもしれない。山手線にも各駅停車の乗換駅があるというのは、僕はそこまで人付き合いが得意でないので、素直に分からないと答える。

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巷の素描

男性構成比が放送作家という業種が仲間内でスラングのように使うセックスという言葉は、異性が交わるというそのままの意味合いではどうやらないようだ。また、そのようなざっくばらんなやり取りが滞ると、大げさに少子化うんぬんと言ったりもする。ともかく、クラスで一人はいるような人気を取ったり、他人から注目されたいという性格がある。

SNSではとっつきにくい専門家より、多少チグハグなところがあっても、寛容なパーソナリティのほうが、巷を明るくするという。とはいえ、発信元の本人が詭弁を弄し、人の性であるかのように、世間一般はではなくで、あなたがでしょうという、太宰治の問答のような堂々巡りになる。だれでも、得意げに当たり前といえる分野があれば、専門家でなくてもセミプロのようになれて一目置かれるようになりたい。しかしながら、どのような世界観かと尋ねると、織田信長かアドルフ・ヒトラーや第二次世界大戦という、およそお笑い芸人や放送作家のイメージとかけ離れた極端な例だった。そういえば子供でも怖がったりする、もしそこそこ判断力のあるマセガキだったら、振り向いてくれないとして、どんどん狼少年のようになる。満たされない心が、苦労の後に幼稚なキャラクターをひそめる。

芸能関係では、演者も目立つけれど、それを収集する編集者もまた、舞台を支える。とはいえ、編集者は定年の65歳をを過ぎた権威がおり、その界隈では徒弟制度がまだ残っているのか、あるいは、編集だけではオリジナリティが出しにくいのか、喫煙所で交わされるような、愚痴に関係者が合わせている。

また、高齢者の麻雀のサークルが、にわかに雰囲気を粟だだせると、関係ないとはおもいながらも、高齢者層が英雄譚を語り始める。それは若い層が関心がないのか、高齢者が干渉してくるのか、なんともいえない。

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LEDフィラメントとアルミナ

LEDフィラメントも5Vの電流をUSBケーブルから流している間は、光だけでなく熱も発する。本来はここに自転車用の、金属でなくセラミックで電気を通さないで熱を通すアルミナ棒を取り付けた。アルミナはボーキサイトという原料からアルミニウムを精製する過程で生み出される。酸化アルミニウムのことで、アルミニウム自体は錆びたり酸化することがないので、酸化アルミニウムは金属でなく、そのうち熱を通しやすい性質だけをもったセラミックになる。アルミナは画材として、amazonで揃えることができた。

アルミナの棒はクロネコヤマトが配送時間の指定が無く、平時の7時くらいまで待っていが入れ違いで、マンションの管理人に小包が届いたようだった。その間に東急ハンズにチューブを見繕いに行き、ついでにシールでゴムのカバーをリチウムポリマーのモバイルバッテリーに付けた。ブロックのゴムでプラスチックのままより手触りが良くなり、衝撃にも耐性ができた。それによってバッテリーを自転車のカゴに載せても、振動を予防する。またホームセンターで工具を入れる筒状の入れ物を自転車のカゴにカラビナで括り付ける。工具入れは作業用ズボンのベルトに付けるためか、鋲で取付けてあり、自転車のハンドルにつけるタイプがなかなか見つからない。筒状のタイプであれば、カゴの上に、ドリンク入れのように付けられて、カゴの中身も空けられる。筒にはビニールの蓋が付いており、雨の時には完全には防水でないけれど、多少は雨露を防げそうだ。とはいえ、USBケーブルの金属の部分やマグネットは濡れっぱなしにならないように手入れが必要になる。またヨドバシカメラの自転車売り場でカゴにゴムの網を付けて、カゴの中身を固定するためのオプションが付いていた。これによってカゴにバックを入れていても、蓋を抑えながら乗らずに済む。とはいえ折り畳み自転車で、カゴのサイズが平たく、網が多少たわむ、金具も上手く引っかからない、そこでホームセンターのカラビナに付け替えてカゴと網を固定することにした。筒状の道具入れにあらかじめ付いていたカラビナは、どういうわけか逆方向に曲がって故障してしまった。カラビナの金具はめったに壊れないので、珍らしい不具合だった。ともあれカラビナの材質は軽くて丈夫なアルミニウムで、カラビナに内蔵されたバネだけでなく、ネジで固定するタイプにすることで、軽くて丈夫な金具を揃えることになった。アクシデントではあったが、それに対して対策を立てることで、工夫のアイデアになった。

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電子書籍と文房具

Kindleをamazonから購入するにあたって、E-inkの性能だけでなく、UIを伴った端末として考えた。Kindle paparwhiteの電源をつけると今までにamazonで購入した電子書籍が読めるようになった。そこで紙媒体では電力を必要としないけれど、読みやすく、書き込みがしやすい一方で持ち運びにくいというリスクもある。そこで身近な紙媒体であるコンビニエンスストアの今週の雑誌のうちどれか一冊、kindleで取り扱っているものを購入して、kindleで読んでみる、これはiPhoneアプリでもできるけれど、液晶画面はカラフルな一方で、長時間の閲覧は紙媒体より目がチカチカする。そこでpaperrwhiteのバックライトとe-inkの組み合わせで、今までコンビニエンスストアで空いている棚を探しては物色していた労力を落ち着いて今週の雑誌を読むことができるようになった。また漫画雑誌のコラムのような文章もE-inkに写してみるとまた読みごたえがある。中国でYotaPhoneというiPhoneとE-inkを融合させて、カメラの解像度を高めた機種があった、それに比べるとkindleはインターネットには繋がらず、wifiは文章を運ぶためのリフトのように使う、もしkindleでGoogleMapといかなくても、簡単な地図やメールができれば通信機器になって便利だと思われたが、通信機器にはCPUのパフォーマンスを一定以上散逸させる。システムが複雑になってくる。iPhoneの外装は日本のフォークやスプーン等のステンレスを磨いて鏡のように仕上げる、新潟県の燕三条市の町工場の技術が元になっているが、中国では硯や文鎮の形をもとから作り出すような発想があった。輝きはなかったが丸みのある硬質な質感があった。しかしながら、YotaPhoneは関税や輸送費も含めると高くなったけれど、E-inkとiPhoneを合わせたとすると、コストはギリギリでサポートにも対話が成立しにくかった。Amazonのkindleも中国語版と日本語版が両方あった。Googleのインストールは応用商店を経由したけれど、androidアプリをインストールするとできるときとそうでないときがあった。

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nodemcuとL字端子

Esp-wroom-02には初めのスイッチサイエンスのイメージ図では長足ピンが付いていた、Esp自体は、Esp8266という中国のEspressifという新興メーカーで、コーヒーのエスプレッソと、プログラムなどの条件分岐のifを組み合わせたやや変わった名前だ。長足ピンは、イタリアのarduio unoの端子に規格を揃えるという意図があった。高さも2㎝くらいになる。スイッチサイエンス社の計らいで、ピンに番号とIDを振るシールなどもある。とはいえ、当時のエンジニアでは、規制品をそのまま使うことがあまり勧められなかったので、パーツショップで比較的コストが掛からず、高さも通常の基盤に揃えた。そのときは端子と端子をカードリッジのように繋げるという発想が、自分で試してみたくなった。Arduinoに比べると、USBケーブルを繋いでIDEを立ち上げるとほぼ確実にプログラムのコンパイルができるが、Esp-wroom02では、ブートボタンと、リセっとボタンを同時押しすることで、何回かに一回はプログラムが書き込める。USBを繋げて、IDEに繋げた状態では、プログラムを読んで実行することと、新たに書き込むことが重なることがあるためだ、しかしながらブートボタンと、リセットボタンを同時押しするのは手間が掛かる。スイッチサイエンスのサポートにより、nodemcuに設定すると多少タイムラグがあるが、arduinoのように書き込めるようになる。ハガキの切手くらいの小型のCPUで、arduinoのプログラムが動き、wifiでサーバーに気象データや合図を送ることができる。もしarduinoに通信機能が付いたら、プログラムはパソコンやマイコンと異なり、ループによるパターン化されたもので、リセットボタンが付いておらず、電源の抜き差しだけで再起動ができる。さらに、Espはそのループでwifiにサーバー通信までできる。

またどういうわけか廉価版の無線機器を日本が技適で認可したことが、電子工作の間口を広くした。arduinoYUNもあるが、独自のlinuxに似たOSやwebサービスを持っており、できれば使って特長を確かめたいけれど、まずはEspを活用してみようと考える。そのEspの最新版では、ピンの数もムカデの足のように増えて、CPUのメモリやクロック数も強化されたけれども、書き込みはそこまでスムーズとは限らなかった。スイッチサイエンスは仲介ではあったが、ここを通ると使いやすいデバイスに改良されている。しかしながら、nodomcuが利かなくなる時は、macOSXの場合は、パソコンごと再起動する必要があった。

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素麺と片手鍋

ストーリーに感化されたというかもしれない、そうめんは美味しんぼの三輪そうめんを扱った涼風そうめんの逸話から、梅雨入りかっら気温が上がる夏にかけて、食欲が落ちる。それは僕が味覚というより、単純にお酒のアルコールが苦手で、また体力もバテ気味だったからともいえる。けれどそうめんの細い麺が、手延べという製法で丹念に伸ばされたものとアニメの逸話を見ると、そうめんがとても素朴で美味しいものに見える。スーパーマーケットでそうめんを買って、片手鍋で煮ると、涼し気でスッキリした後味が残る。麺を棒に編み物のように掛け巻きをする様子などは風景に調和して何とも言えない、それは味というよりひとつの文化であり風習なのだと思った。

また、大学の下宿先では、古本屋で美味しんぼを買ってきて、2巻のジャガイモのパンケーキを作ったりとしおらしいところがあった。正直あまり美味しくなかったようだけれど。行徳では、不動産屋がアパートの近くにあったので、東京都東部にあるスーパーヤマイチで買った大根餅を焼いているところを迎えたことがあった。

また一人暮らしのときに無印良品で動物の片を取ったパスタがあり、ブロンズダイスという鋳型で小麦粉を伸ばしているから、表面がザラザラでソースが絡みやすいという、竹の籠でもその存在感から、なにを入れるわけでもないのに買ってしまったりする。ともかくそこでその小麦粉の感触が同じパスタで、イタリアの雰囲気があるものとして、ディチェコのパスタがあった。蕎麦のようにゆで汁も飲むことができる。そこで美味しんぼではいろんな食材の中でも、いわゆる食通がたべるものでなく、一般家庭にも普及したものでとくに麺となると、おそらく僕がスマートフォンやネットカフェなどで空いた時間に調べるよりも詳しく自説を展開するだろうと予測された。ところが冒頭ではチェルノブイリ原発で汚染された小麦が輸入されているという、おそらくは深刻だと常識的には考えるが、突拍子もないものだった。パスタの茹で加減は多少芯が残るアルデンテがよく、メニューはニンニクの玉ねぎのパスタがシンプルで、それだけに鮮烈な印象があった。なにより鍋焼きうどんのように具沢山なものでなく釜揚げうどんのようにシンプルに味わうというのは、却ってバリエーションを豊かにした。自炊にそれほど興味が無く、立ち食い蕎麦でも食べてしまうけれど、献立の意味を感じた。

ディチェコは、郊外のスーパーマーケットでも、都心の成城石井でもイタリア風の素朴な麺として揃っている。応用としてはラーメン次郎という、野菜を山盛りに太麺の上にのせる若者向けのスタイルがあり、その麺は市販の中華麺や即席のチキンラーメンのようなものでなく、食感だけならディチェコのリングイネが近いという、腰の強い太麺と野菜炒め、別に食糧難でないのにも関わらずそういったメニューはありそうでなかった。ところが、ディチェコのリングイネがそこまで大食いでもないので、一人でいったころもない次郎の麺に食感だけは近いという、例えばボンカレーが給食の肉じゃがのようなカレーだったとして、ソフト麺という、パスタでもラーメンでもないようなノッペリした麺が、僕らが小学生だったひとつ前の世代では出ていたという。また揚げパンなども、たとえ栄養バランスが取れた現代でも忘れられない味になっていると先輩が話してくれたことがあった。

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現代史に漂う意思

現代を読み解くうえでタレントは直感的で分かりやすい、対して専門的では具体的ではなく、取り掛かりずらい。図書館が公民館から民間のカラオケなどのアミューズメント施設の運用会社に委託されるようになって、ライトノベルは置いてあり、子供たちの意見も聞けるようになったけれど、題材は現代化せずに、本のジャンルも便利になると、かえって固定化する。センター試験では、歴史は効率が悪い科目だった、新聞の近代史を見ると、読まされるより、勘違いがあったも読みたいものがあれば、なにかしら語り草になる。

スマートフォンを個人的な理由で解約しようとすると、コールセンターをたらいまわしにされて、高額な違約金を持ち出される。そこには理由こそ道徳的に明らかでないが、産経新聞で総務省がそれが市民の暮らしを圧迫しているというように疑問が投げかけられなければ、利用者は消費者センターに問い合わせるくらいしかなかった。別に個人の意見を社会一般に代弁することはできないが、なにか風潮のようなものがある。CEOをIT化を進めていて、それに広告が連動して、それだけを見的にいると、近未来的にも見えるけれど、人を舐めるのも、自分が相手の立場ならいい気分ではないけれど、なぜ営業マンがこぞって議論するようになったかはわからない。

死のストレスというのも、根も葉もない宗教のようで、あまりしっくりこない。子供の頃は本をよく読むひとが、文学的な表現としてそれを用いていた。口論すると、なぜか直接名指しで非難していないにも関わらず、負けそうになる。そもそも口論に勝ち負けがある時点で協力的ではないけれど、本能的に相手と権威や正当性を比べることで、なにか方針を決めるということが平和になっても、心にはある。エゴは他人を無視するだけならともかく、ほぼ自分より立場の弱い人を非難することが多い。

実際の八百屋や商店街と違って、それを作品の素材にするマスコミ関係者はお得な話を持ち掛けることがほとんどない。それはいかにマスコミの事務所が徒弟制度のようなものだったとしても、非常に閉じたコミュニティになる。漫画の宇宙兄弟の閉鎖空間のようなコミュニティで、社会の全ては数人の構成員の駆け引きで決まってしまう。もちろんだれもがはじめから駆け引きに長けているわけではないのだけれど、生産的でないとしても駆け引きは形を変えて影響する。

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