コミュニケーションの共通要素

手続きが間接的だったときにその概要が掴めなかったのはやはり世間知らずだったかもしれないが、ともかく自分と相手の都合を合わせてなるべく早く手続きをする必要がある。就労支援施設に通っていることはこっちの都合かもしれないが、ストレスが溜まりそうで予定が立たないときは事前に相談することができる。不安ではある。離職票の手続きはそこまで詳しい記入が必要なく、電話で要件を話した方がいいというアドバイスも頂く。とはいえ、ともかく体を空けておく必要がある。また自分から進んで通所した日々は無駄にはしたくないとも思っている。一般職の人に会うと待遇面でギャップを感じることがあり、なにかあるけれどそれを事前に教えてくれないことが不安ではある。こういうことは手続きではよくあることと聞かれると安心する。なるべくは目立たないその他大勢になりたい気分だった。実のところ、先週の火曜日に手続きをすることもできたが、就労支援施設を体験するために木曜日にした。対人関係に慣れる機会ができたためにそれも選択肢だと思ったが、前職を引きずっているようで気が重いのも事実だった。

午前のプログラムでは断り方の講義だった。相手を立てながら自分にできないことは、安易に受けずに断ることも必要になる。グループワークではよくあるシチュエーションをもとに意見交換をする。グループワークに参加したメンバーからお礼を言ってもらったので、自分もそれに対して返事をしてみることにした。弁当は鶏肉のオイスターソースがけと中華料理だった。匂いはそんなにしなかったので、濃厚な味のメニューだったことが新鮮だった。あんかけがあるので容器が熱くなっているようで今までにないメニューだった。鶏肉は自炊でもなかなか手に入らないので味わって食べることにした。

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学びと相互理解

何を言われても嫌な顔をせず、黙っていればそれが相互理解や協業に繋がると思いたかった。もしその相手の言うことをじっと見つめて、その間わき目も振らず、相手の立場に立って説明の内容を理解して、それで適切な対応ができたならどんなにか負担が軽くなると思うことはある。その内訳を見るとそのためには経験者と同等の実力が必要になってくる。対話でありながらもさながら腕相撲のような小競り合いがある。僕はそういったアクティブうなコミュニケーションが苦手だった。相手のことを悪く思っている訳ではない。世代によっても、指導がより一方的で抑圧的なことでさえ実行力があるとして、頼られていたこともあるという。相互理解に基づく友情というよりは反対者にしたくない人という印象。僕の場合はその日の業務のノウハウが立てづらいことで、不安と恐怖に精神的に圧迫されていた。仕事が修行であったほうが、精神と肉体が健全でいられるのだという。他の世間のことは分からないので、比較検討はできない。あくまでも一つの選択から成り行きでそうなった過程と考えられる。作業の場を修行の場にするための囁きのようなアドバイスに耳を傾けられれば、その日が比較的難が少ない。ところが、集中力が持続せず、うわの空でかすかな囁きやフラグの変化に気が付かないと、たとえ悪気がなかったとしても状況判断を誤って、ミスやインシデントに繋がって不利な立場に立たされる。相手を思いやることは、わずかな機微に気が付くことでも、また礼儀をもって伺いを立てることも必要になる。ケースバイケースの部分がある。厳しい、シビアだと感じる人でも、参ったという意味合いを込めて分かったと返答する場合と、内容を覚えたり理解しきれていないのに分かったという場合では、許容と理解の程度が異なる。反復することで、理解はできるようになる部分もあるけれど、そのときのタイミングで気が付くべきこともある。

作業には時間をかけて丁寧に取り組むべきことと、効率よく手早く行うべきことがある。そのバランスが難しい。いちどミスしたことを、指摘されるとうんざりする分には気持ちの切り替えで何とかなるけれど、ミスしないために対策と準備をする必要がある。習慣や無意識に忘れたり抜け落ちているところは、言われないと気が付かない部分もある。指導に熱が入って一方的に言われっぱなしになることもある。相手が経験者でこの先の段階に必要な情報を持っている場合は、そういった不均衡がでることもある。一方で、経験者と未経験者をとりまく人間関係が円滑になることを、学ぶ側だけでなく、教える側も気にかけているところがある。そういった面では紳士的な性格も持っている。または現場の指導には具体性や専門性があるが、その人を指導する側には精神的な影響があるように思えた。まるで親と子のような感じだった。とはいえ、社会人になると相手に頼ってばかりもいられず、いつかは自立する必要がある。指導と扶養は似ている概念や構造もあるのかもしれない。教わることは新しいことが学べるので苦ではなかったが、上下関係や業務の中で行うと独特の緊張感になる。

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工事の過程

コツが知りたいという人がしばしばいる。業務知識だけでなく、その人をとりまく人間関係を変えたいという発想だ。言い寄られるのは、あなたが何かを持っているからだ、お金や業務に換えられない、といっても資産というほど価値があるものではないけれど。持っていなければどうするか、なんとかしてグループにしがみつく、特に迷惑をかけて居なければ、変に折れてしまうのは放置しておきたい。ギャンブルは根っからの遊び人より、なまじっか真面目で気を使って損をしそうな人や、老齢で定年を過ぎても若いころの作業をしたいという特殊な層に受け入れられる。

とある編集者のボランティアには、講座の費用をカンパする席をなにがなんでも取り、執拗にお金を数えていた。またマイクを持つとステージにあがりこんで長話をして呆れられている。文系になると、どうしても話が長くなる人がいる。またそういう人は決まって、とかく話をさえぎられることを嫌がる。そういう人のおかげで僕は、簡潔に話すようになったが、それでも相手の利害や都合によっては伝わらないことがある。しかしながら、僕は相手の事情は分からないし、懐具合や気持ちも推し量ろうとしても、分からなかった。意図的に30秒対面していると、相手が気にいっていればそれはあっという間に感じる、また、相手がそれを煩わしく思っていれば、その間は長く感じる。どちらかというと心理的な演出になる。とはいえ、短く感じても、長く感じても相手がどう思っているかは分からないままだった。なれ合いかそうでないかによるという、劇団員やドラマのエキストラのように緊張感を持っていることが場をつなぐという。その発想で行くと、一般人はどちらかというと刑事に向いていると言われる。正しくはあっても面白みがない。しかしながらそういった真面目な人に限って注目を集めたり、つるし上げをする場合もあるので困ったことがある。

日曜の夜に首都高速道路の補修工事があって、騒音が大きかったが、交通量が相対的に少なくなるのがその時間帯で、工事は基本的には休日に行わないが例外的なものだった。既存のアスファルトをブルドーザーが剥がして、新しく張り替える。作業員は赤いLEDランプが点滅した作業着を着ていて、通行止めのテリトリーを作っている。首都高速道路にはプレハブが付いており。足場にはナンバーの鍵がかかっている。ブルドーザーが接近すると音が大きくなるが、道なりに続いていると音は小さくなる。音が小さくなると、作業員がどこか物寂しくなるのか、ドリルのガガガという音を近づけてくる。時間帯が平日なら勤勉に感じるものが、生活圏と被るようになると、唐突に思えてしまう。

ビルの建材のホームページを作っていたが、そこからは音がしない、とはいえ施工業者が取ったデジタルカメラのカタログ画像をWEB用に最適化する。PNGという背景に透過するようにPhotoShopで加工すると、素材の雰囲気がでてくる。そのメーカーが賃貸用にネジを付け替えするだけで二重窓をオプションで追加するサービスを展開していた。ガラスの防音と薄さをまるで度のついた近眼用のメガネを見繕うように薄くて静かなガラスを選んでいく。図書館の補修工事もそうだったが、どういうわけか日常と被るとどうしても音が気になる。作業員がおしゃべりであるかはあまり関係ないようだ。それを知人に話をしたら、それは縄張り意識があるからだという。僕は起きて半畳、寝て一畳と思っているからそこまでは気にならない。もし、音がでるドリルやブルドーザーが平日に稼働していたら煩わしさより頼もしさでカバーしていたと思う。

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チームで描く絵の下書きのために

できれば関わる人のパフォーマンスが良くなるように動きたいと思った。
仕事がしんどいものから、場に臨めるようになれば、経験を積めるチャンスにもなる。時には経験と年齢が比例しないこともある。その人なりに、考え方があり、どのように同意を引き出せるだろうか。
相手が同意することで、良くならなければなんとなく後味が良くない。僕もできる限りの努力はしているつもりだけれど、相手にしてみれば、いいように振舞っているだけに見えるかもしれない。どのように望んだらいいかを考えながら、オフィスに比べて少し外の空気に触れて、その場にいる意味を考えようとした。
声が上手く出ないことが多い、後ろめたいことを考えなければ、自然と相手に伝わることもある。役者さんは演技に何も含むところがなくても、中立のパーソナリティが見る人に伝わることがある。そこにはデータに書き込むような証拠はないけれど、どこか存在感がある。もし、僕とは違う責任あるポジションにある人がいたとしても、相手に過度に頼りすぎずとも、相手の支えになることができるようなコンテンツがあるのかもしれない。もしも、漫画や小説にのめり込めなかったとしても拠り所になる理念のようなものがありそうだ。僕は、少々インドアなところがあり、スポーツに比べれば運動量は少なかった分、文章や写真の伝え方や見せ方を考える機会に恵まれた。その中で、相手の生の伝えたい気持ちがなるべくシンプルで、特定の枠組みに寄らないような考えが描けたなら、相手には励みになると思った。それでも、より積極的な場合では、自由に描画ツールをマウスで動かしたり、パワーポイントのあしらいを楽しそうに考えたりするところで、ただ作業に望んでいるより有意義な時間が共有できる。自分の実績にはならなくても、誰かが上手く仕事ができるようにアシストできたらいいなと思う。得意なことや慣れたことを仕事にすれば、負担は軽くなり、効率は良くなることもある。それでも、相手が仕事をしやすくなければ、成果に結びつかないこともある。仕事にはクリエイティブなものもそうでないものもある。インターネット上のwebサイトを見るとどちらもホームページであり、コンテンツになりうる。話が得意な人も、ルックスがいい人も、または何でもないひとでも共通して、納得できる要素がある。それを抽出して、ある条件で相手に伝えると共感されることもある。それはとても有難いことだと思う。
漫画家は絵を描いて、架空のメディアを作る。それ自体はフィクションも含まれるかもしれない。しかしながら、仕事にも携わる人が価値を共感しやすいような物語が含まれている。そのモデルを読み解いて、相手にそれがあたかもライトノベルのシナリオであるかのように伝えれば、絵を描くことがより楽しくなる取り掛かりになることもある。
僕は初めは何かを写したりなぞったりしかできなかった。今でも、文章を描くことは素直な考えをなぞっている。それ自体が何かを生み出すことは物理的にはあり得ないかもしれない。しかしながら、なぞることや例えることで、モヤモヤした課題を相手にも手が届く形に置き換えることができる。形にするだけでは、そこにあるだけなので、それを運べるように加工したり、袋に入れたりする必要がある。限られた条件の中で、より洗練された方法として受け手に認識されることもある。
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学びの場の運営について考える

あまり、人が他人のことを言うことは、興味が湧かない。たとえ能力や才能があったとしても、生き馬の目を抜いたり、鬼の首を取ったようなと言う手柄を誇りたくない。僕には能力がないことを自覚している。
あえて背伸びしたいことがあるとしたら、
・価値観を磨く
・実学を身につけて、伝える
・次の世代に役立つエッセンスを突き詰める
いっそバーチャルだと思えばいいんだ。僕は、日常では生活のために利己的になったりするけれど、シミュレーションゲームでなら自分ではプラスにならなくてもより良い結果を出すために敢えてタイプではないやり方も採用するでしょう。実は、それが本当の現実だとしたら?どこまでが本当で、どこからが嘘なのかわからない感じだ。それに人をどうこうするのが苦手て、目を合わせてどっちが優れているかを意識するだけで相手を傷つけることもあるかもしれない。自分では、そう言うつもりではなくても無意識に相手を不快にさせていることもあるかもしれない。管理することに意味はあるのだろうか、意味など一人では作り出せない、集団の中でそこにしかない意味が生じて、そこで如何に貢献するかで身の振り方も変わってくる。
権力に例えると、与党と野党みたいなもの。日本では与党も野党もあまり区別がつかない。
大まかには江戸時代から土佐藩の中立で薩摩藩と長州藩が同盟して、明治維新が起こった枠組みが、戦後も続いている。
その中でも、小池百合子都知事の都民ファーストの会がすんなり通ったことが、小気味よかった。
元々人脈づくりは仕事の上であったかもしれないが、思っても見ないマニュフェストを掲げて誰も行わなかったことに挑戦することが、むしろ僕たちを安心させた。現代になって公と言う概念が、多様化している。
社会人になると友達を選べなくなってきた。誰でも友達でなく他人と言われると比較的落ち込むので、可能な限り親切にすることにしている。一方では、良く思われたい心配が濫用されることで、目的を見失うこともある。
夏目漱石の草枕の冒頭から、
智ちに働けば角かどが立つ。情じょうに棹さおさせば流される。意地を通とおせば窮屈きゅうくつだ。
とかくに人の世は住みにくい。
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社会不安とソーシャルネットワークを繋ぐなにか

今朝方、イギリスのマンチェスターで、テロが起こった。
コンサート会場で爆発があり、22人が死亡、50人余りが負傷した。
最近、ウェストミンスターでテロがあったばかりで、Brexitが影響しているのだろうか、イスラム教への理解とシリアでの紛争との兼ね合いがある。
日本でも安倍首相も名首相に向けて、哀悼のメールを送っていた。
僕は海外に旅行にいったことはあまりなく、海外とのやりとりはSNSやTwitterでのやりとりが主なものになっている。その中で、潜在的な危険性がインターネット上に蔓延っていて、テロ事件もその氷山の一角かもしれないという見方があってやきもきしていた。日本でも新宿で5月21日に1800人規模での共謀罪の施行についてのデモ行進があった。そこでFacebook側ではどのような読み取り方をしているかが気になった。タイムラインに埋もれにくいものの、記事には写真と500文字以上のテキストを入れることができる。
コメントでも写真とテキストが入る。そのため、お互い示し合わせて人気を演出したり、政治活動や学習塾に勧誘することもできる。こういった活動が、識字率の高い国で恣意的に行われている。そういった他人を操作する情報を見るだけで、毒に犯される、という見方が強い。
ではそういったインターネットの毒というものはどのような種類があるかを、
ハフィントンポストのこの記事から読み解いていこう。
参考:
http://www.huffingtonpost.com/dr-travis-bradberry/6-toxic-relationships-you_b_9548628.html
In a new study from Georgetown University, 98% of people reported experiencing toxic behavior at work.
ジョージタウン大学の調査では、98%の人々が、仕事中の嫌がらせを経験した。
そのうち、
・80%はそれについて心配する
・78%は組織への忠誠心がなくなった
・63%が嫌がらせ行為を避けて勤務時間を無駄にした。
・38%が故意に仕事の質を落とした。
・25%が顧客に不満を抱くことを認めた。
・12%がそれを理由に仕事を辞めたと答えた。
しかし、それでも証拠がなく、空気のように形や痛みが伴わないものが多いので防ぎようがなく、真綿のように締め付けられ、一部では発作や暴動が起こる。という病気のような不安が慢性化している。
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