情報の相互性

もし僕が子供だったとしたら、YouTubeでマスコットのように扱われることを不本意だと思うだろう。子供がでたくて出ているほどに判断力はないと考えられる。ファミコンなどのゲームは子供同士でも遊ぶことができて、ソフトウェアを所有できていたが、スマートフォンなどの映像機材を使わなければ実現しない動画では、どうしても親というスポンサーが主役にならざるを得ない。声優になりたいわけではなかったが、ナレーションのときに印象的なBGMがあるとそれらしく見えるという企画があり、バラエティ番組でよく引用されていた。それがニコニコ動画などで既存のアニメーションに煽情的な歌謡曲を組み合わせるMAD動画のもとにもなった。歌ってみたという企画では、すでにある楽曲を素人のユーザーがアテレコをするもので、有名が楽曲である方がユーザーから共感を集めやすかった。たしかに聞いてみるとなるほど、どこかで聞いたことがある。名も知れないアイドルが楽屋で歌っていたことに既視感を覚える。

mineCraftの小麦畑の回収に伴って、猫を手名付けるときに、ふと3Dモデルを検索すると同じように猫の3Dモデルがあった、サイコロ状のUVマップだったけれど、なんともいえない愛嬌があり、それを組み合わせる楽しさを伝えられたらと思った。中国のmiHoyoのスマートフォンゲームで猫に似た、ニンディというキャラクターをガチャで引き当てて、それ自体は丸みのある2Dと3Dを組み合わせたような造形だったが、サイコロの組み合わせのUVマップでもそれが猫だと分かれば、キャラクターの表現は可能だと試して見たかった。手足の関節の原点移動などは、3 D画像ソフトのBlenderの箱うしというサンプルキャラクターを参考にした。

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個性と文化

パチンコ狂またはアイドル狂時代。資本主義と社会主義のどちらにも属さない吹き溜まりでは、つまるところそんな感じだった。世間一般のことはよくわからないが、ここでは学歴や常識も、ガチャやチケットやパチンコの確率変動とやらを改善するための方便に過ぎないようだ。香港だけでなく、台北や釜山、マカオなどではギャンブルのためのカジノがあり、富裕層と貧困層が2極化している。日本でもカジノ法案が検討されているという。

世の中には過当競争で、長所を埋もれさせてしまうよりも、それぞれにいいところがあり、椅子取りゲームや運試しゲームのようなものが日常にありすぎても、チンピラのようにやさぐれた感じになってしまう。チンピラだって服装はシッカリしているし、ビジネス用語には習熟している。しかしながら、なにかいたわりを感じない。それが、妙な緊張関係になってしまう。あるいはその枠組みやルールの中で、上手く弱いものをイジメながら、立ちまわることこそが世渡りなのかもしれないが。

Vimeoにて、韓国のnextfloorというゲーム会社が、スーパーファミコンのゲームソフトをモチーフにしたマニュフェストという動画があった。
(参考:https://vimeo.com/238021901 )
ファミコンのアクションゲームは、作品としてハードウェアのある家に、子供たちが集まって遊んでいた原風景は、日本でも韓国でも変わらなかった。韓国にはgalaxy PhoneというiPhoneに変わる独自のスマートフォンがある。Wind Runnerという横スクロールアドベンチャーがあった、スマートフォンのスペックは当初はノートパソコンに比べるとそこまで高くなく、ブラウザが見られることでまるで手鏡のようだと称されたこともあった。そんななかで次の景色が見られるのが、アドベンチャーゲームの醍醐味だった。当時iPodを車のハンドルに見立てて、カーレーシングゲームをするというアイデアが盛り込まれたこともあった。乗る人が限られたレーシングの車だけでなく、グランツーリスモのように市販の一般車を、教習所のような形で試運転するシュミュレーションとしてスマートフォンが活用されるという構想もあった。

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チームで描く絵の下書きのために

できれば関わる人のパフォーマンスが良くなるように動きたいと思った。
仕事がしんどいものから、場に臨めるようになれば、経験を積めるチャンスにもなる。時には経験と年齢が比例しないこともある。その人なりに、考え方があり、どのように同意を引き出せるだろうか。
相手が同意することで、良くならなければなんとなく後味が良くない。僕もできる限りの努力はしているつもりだけれど、相手にしてみれば、いいように振舞っているだけに見えるかもしれない。どのように望んだらいいかを考えながら、オフィスに比べて少し外の空気に触れて、その場にいる意味を考えようとした。
声が上手く出ないことが多い、後ろめたいことを考えなければ、自然と相手に伝わることもある。役者さんは演技に何も含むところがなくても、中立のパーソナリティが見る人に伝わることがある。そこにはデータに書き込むような証拠はないけれど、どこか存在感がある。もし、僕とは違う責任あるポジションにある人がいたとしても、相手に過度に頼りすぎずとも、相手の支えになることができるようなコンテンツがあるのかもしれない。もしも、漫画や小説にのめり込めなかったとしても拠り所になる理念のようなものがありそうだ。僕は、少々インドアなところがあり、スポーツに比べれば運動量は少なかった分、文章や写真の伝え方や見せ方を考える機会に恵まれた。その中で、相手の生の伝えたい気持ちがなるべくシンプルで、特定の枠組みに寄らないような考えが描けたなら、相手には励みになると思った。それでも、より積極的な場合では、自由に描画ツールをマウスで動かしたり、パワーポイントのあしらいを楽しそうに考えたりするところで、ただ作業に望んでいるより有意義な時間が共有できる。自分の実績にはならなくても、誰かが上手く仕事ができるようにアシストできたらいいなと思う。得意なことや慣れたことを仕事にすれば、負担は軽くなり、効率は良くなることもある。それでも、相手が仕事をしやすくなければ、成果に結びつかないこともある。仕事にはクリエイティブなものもそうでないものもある。インターネット上のwebサイトを見るとどちらもホームページであり、コンテンツになりうる。話が得意な人も、ルックスがいい人も、または何でもないひとでも共通して、納得できる要素がある。それを抽出して、ある条件で相手に伝えると共感されることもある。それはとても有難いことだと思う。
漫画家は絵を描いて、架空のメディアを作る。それ自体はフィクションも含まれるかもしれない。しかしながら、仕事にも携わる人が価値を共感しやすいような物語が含まれている。そのモデルを読み解いて、相手にそれがあたかもライトノベルのシナリオであるかのように伝えれば、絵を描くことがより楽しくなる取り掛かりになることもある。
僕は初めは何かを写したりなぞったりしかできなかった。今でも、文章を描くことは素直な考えをなぞっている。それ自体が何かを生み出すことは物理的にはあり得ないかもしれない。しかしながら、なぞることや例えることで、モヤモヤした課題を相手にも手が届く形に置き換えることができる。形にするだけでは、そこにあるだけなので、それを運べるように加工したり、袋に入れたりする必要がある。限られた条件の中で、より洗練された方法として受け手に認識されることもある。
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