アナログとデジタルのペースメーカー

パソコンを使って文字を書いたり、絵を描いたりできるけれど、パソコンが電源を入れると回路が動いて、任意のパターンで動く事が元になっている。たとえ話では川から水を引いてきて、水が重力によって上から下に落ちる原理を使って水車を作ったり、それで小麦粉を臼で弾くことに応用される事がある。最近ではそういった工場での作業がどのような役割を持っているかを言葉にする事が難しくなっている。物事には正解があり、それから外れると間違えるとされることもあるが、その段階では飽和状態になっている場合が多い。

象の背中という本に、いいペースで蕎麦を食べるという習慣があると、作業効率が良くなるという。今日何食べたというメッセージから誰かを気にするかしないかがわかるということもあるけれど、そういったことはあまり考えたくなかった。もし手作業である程度何かを動かしたり直したりしたい役割をしたい場合は、自分がその担当でなかったとしても、一段階上の立場をシュミレートするとうまく行く事があるという。逆に遠慮しすぎると、理不尽な目にあったり、思った事が上手くいかないという巡り合わせがよくなくなる事もある。日本ではあまり取り立ててこの人がダメだというケースはあまりなかった。それでも、店に行っても欲しいものがなく、将来の目標を考えようにもどうにも計画が立たない。何かを作ろうにもすでに世の中に色々便利なものがあって、その上に何を付け加えればいいかと悩む。最近はあまり食事をとりたくない人もしばしばいる。僕もその時の気分では、全く食べたくない時もあるけれど、一定の周期で食事をした方がおそらく生産性がある。食べる事自体は消化する事だけれど、単語帳の文字を食べると覚えた気になると聞いた事がある。

高校の時はエクセルに書くことがなくて、とりあえず目に負担の少ない緑のラベルにして、教科書の単語を移していた事があった。できる人のノートはあまり具体的に書いていないのに、どうしてエクセルで家計簿のような型に整える必要があるのかは10数年たった今でも疑問ではある。当時は名前や住所を描く事が苦手で、できればワープロで読みやすいものにしたいと思った事もあった。携帯電話が普及すると、番号とテンキーからメールアドレスとポケベルのような文章を作る事ができるようになったが、会話文になるとパソコンを使わざるを得なかった。何か離れたところに対してメッセージを送ったりするには、携帯電話を持って何も伝えられずに悶々としながら、家かパソコンのある場所まで最短距離で帰るということをしていた。

パソコンを買ってインターネットに繋がっていないと、そのパソコンで何をしていいかのモチベーションがかなり下がる。ところがダイヤルアップでも何かと繋がると途端になんでもできるような変なテンションになる。パソコンの仕組みはまだわからない事も多いけれど、簡単なモデルを作ってそこに足がかりを作って、少しずつ登って行く、まちの道路はあらかた整備されているものの、パソコンのネットワークはジャングルのように未開の状態になっている。それがゆえに、フロンティアとしても可能性があるのか、または既にあった事がある人でも状況や変わったり、思わぬ転機が訪れたりするかもしれない。

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十字キーと対話

ゲームといえば、ダイエーのショッパーズプラザでスーパーファミコンのコントローラーを持って、学校帰りの小中学生と並んで外で画面を見てするのが通例だった。自宅ではクリスマスにファミコンを買ってもらってはいたものの、家にあるラインナップではどれが人気のゲームかが分かりにくかった。SDガンダムのガシャポン戦記では、騎士ガンダムのBGMにオルゴールのJ.S.バッハのトッカータとフーガが印象的で、その曲だけは覚えている。しかしながら、ファミコンを大事そうにもっていくとスーパーファミコンやプレイステーションが主流になっており、かなりカルチャーギャップを感じた。ロマシングサガ3は大学の漫研でも陣形の編成などにワクワクしていた。僕がコンビニでプレイステーションソフトのヴァルキリープロファイルをCDだけ買って、ハードディスクは持っていなかったので、知人の家にソフトだけ持っていき、プレイステーションの4つのボタンを組み合わせて、チームが連動する様子がリズミカルだった。漫研にもヴァルキリープロファイルの

攻略本が置いていったことがある、美少女だけでなくいい年をした叔父さんもリアルにスケッチされており、世の中に不要なキャラクターなどいないというのがテーマだったようだ。学生の頃は機械といえば自販機かファミコンくらいしかなく、上下左右の十字キーがプログラムの起点だった。

社会人になって、インターネットで調べると液晶テレビとパソコンを揃えた。当時は予算を必要以上にケチる傾向があり、バイデザインの液晶テレビは予算の割に画面が大きく、その上壁掛けテレビのように無駄な装飾が少ない、またノートパソコンはタブレットとして使えるようなノートパソコンで、持ち運びやすさを優先してスペックはそこまでこだわっていなかった。薄型のパソコンでまずは概形をつかみやがては、自作パソコンのようにDIYで自分らしいものを作ろうと思っていた。アパートのロフトに漫画とパソコンが置いてあり、そこが遊び場になっていた。パソコンのスペックは気にせずにネットサーフィンができればというくらいだった。あるときゲームセンターでシューティングゲームを買い物に行ったついでなどにゲームの続きが気になってコインをつぎ足したくなる気持ちを、ノートパソコンでできるかどうかとして、ホワイトキャンバスという同人ショップで東方紅魔郷と東方永夜抄をパソコンにインストールした。USBの十字キーもパソコンに接続され、無数の弾を避けながらボスを対峙する。

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アナログとデジタルの回想

僕が子供の頃には、パソコンは家計簿の作成に登場するくらいで、そこでゲームとまではいかないけれど、簡単なマインスイーパーやテトリスができるだけで、日常に無い考えを反復して形にするようなチャンスができた。パソコンはカタカタと青色でない緑や赤のLEDを点灯させながら、まさにマシーンという感じだった。テトリスのBGMはMIDI音源の民謡のトロイカだった。カメラは当時は、フィルムを写真やに現像してもらうようなスタイルで、デジタルカメラになって自分で現像できるようになるということが珍しかった。ホームページにデジカメの写真で旅行記を作ったとしたら、もし他の人が見たら、雑誌や書籍とは異なった生の体験ができたり、実際にそこにあることが写真から想定されテキストやコメントでも体験の雰囲気が伝わってくる。現地の人に聞こうとすると、ある程度読み聞きしたところで情報の断片になっていて、それが正しいとすると、それは現実になる。何か先入観や勘違いがあると、それは現実にはならないという体験から、正誤に厳密になりがちなところがある。今でもサムネイルの画像と、プロダクトを見比べる事が密かな関心にはなる。本当にそのような印象を持ったものがあるのか、ないのかと気になる。とはいえ、実際の店舗では、印象は生の場から醸成されるところもあり、ライブなどは、譜面通りになるとは限らない。それを人工的に再現したカラオケでは、アニメソングはお経のような複雑な言い回しになっているが、歌謡曲では、誰でも歌えるようにリズムを心拍数より気持ちゆっくりにしたり、音域を低めにしたりと、ストレートな癒しがそこに流れているように思われた。

カセットテープを携帯して持ち歩くウォークマンでは、リモコンに液晶で曲名とバッテリーの残量がデジタル表示で出るのがとても新鮮で、▶︎playと■pauseは再生と停止、一時停止もあるという、曲でサビがくればそこで停止して、少し間を開けてまた続きを再生すると余韻が少し耳に残る。displayという項目があり、それは再生playを止めるのかと思ったら、英単語メモを丸暗記しようとしていたのか、液晶画面が青く光って、音は何も変わらなかった。

図書館では、学生時代の浦安図書館ではバーコードで貸し借りを管理するシステムを見る。その裏では、書籍を登録したり、借り貸しを記録するパソコンらしいものがあるのかもしれない、アニメのルパン3世ではカセットテープが長く太くなったような記録メディアだったけれど、詳しくは分からない。学校では、バーコードでなく、図書カードを手書きで記入していて、そこで同じ本を読んだ人が感想とまではいかないにしても、ちょっとした話題交換の場になっていた。そういったところでは、僕は塾に通っていなかった頃に、優等生の人が歴史とキリスト教の本を読んでいて、僕はそれを見たところで家は仏教かお寺か分からないし、その人なりの深い考えがあるのだろうくらいに思っていた。

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情報を運ぶ乗り物

パソコンを使うきっかけになった事は、家庭で家計簿をつけていた時だった。その頃から、簿記や会計の内職のようなものを両親が行なっていた。かつて家にあったもので、自動車とパソコンは、家庭の中にいるようで外の世界と行き来できる、ソフトとハードの乗り物だった。とはいえ、僕は自動車のAT車向けの免許を取ってからあまり乗っていない。父の代ではタクシーの運転手から見様見真似でレバーの使い方を覚えて、それで目的地まで移動する手段としていた様子が想像できる。それでも自動車も年月が経つとベアリングなどがすり減ってやや乗り心地が独特になってくる。自動車のブレーキは、電車のATSが導入されており、ハンドル操作がブレーキを握りながらでも動かせるように力加減が調整されているようだ。自動車でどこかにグループで移動することが、そのまま目的を持つことに繋がっていた。近年では、こういう仕組みの車を動かして見たいとか、または効率的なエネルギーでどこまで進むかというようにやや過程を大切にしたいところがある。

パソコンは、もともとはワードプロセッサーがリビングに置いてあった。かつては自動車教習所の合宿所の一角にも、インターネットコーナーが設置してあり、純粋にそこで検索エンジンでキーワードを工夫するといった事を知らず知らずのうちに試していた。ホームページが任意で登録され始めた頃には、同じ目的や考え方を持ったユーザーを見つけたり、連絡を取ることが楽しみではあった。それとは別にパソコン自体もいわば情報を運ぶ乗り物のような仕組みになっていて、それをあり合わせのロジックで効率化したり、変化させていくことに醍醐味があるかもしれない。

僕はあまり、かつての掲示板やはてなブックマークなどにはあまり、面識がないけれど、何かを情報発信したり、誰かの役に立つデータを作るのに、意外に難しいロジックを考えることが結果として必要だったとしても、そもそもどのようなことがしたいかを知ることが意外に近道になる事もある。パソコンの場合ははじめは限られたスペックで表示するドット絵だったのが、だんだんとPhotoshopが発展して、江戸時代の浮世絵の美人画のようで端正ではあるけれど、それを実写にしようとするような気はあまり起こらない。またエクセルの表は、例えばガルシアマルケスの小説の登場人物をメモするくらいで、それでもどうしてそこでその組合わせや例えになったかと言う事を想像することも、普段碁盤の目のように整備されていた升目を柔軟に活用するきっかけにはなるかも知れない。もし絵が描けないときは小説か、フィクションを読んで空想に習うか、または人体の骨格をなぞるといいと言う、または車のシャフトとギアの噛み合わせを何度か試してみる。はじめは何かの真似かも知れないし、または空気がややも読めておらず、正解を意識していないかも知れないが、意図を伝える事はできる。

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