若者と景色

人生の楽しみや醍醐味はお爺さんがもっている。若者はお爺さんに温かい目を向けられるだけで生きがいを感じる、逆にあるいはそうでなければ疎外感を感じる。純粋で気力にあふれる青年ほどその傾向が強い。ぼくはどちらかとうと壮年の方が怖かった。噂を通じて怒っているかそうでないかが日ごとに伝えられる。同年代で共感できることが難しい、相手はバカではない、自分より自身に溢れていて意欲的だ。かつては空き地があり、そこで泥んこ遊びができたり、立ちションができたりした、現代では日本はとくにアスファルトの舗装率が高く、足を痛めない道路が却ってない、自転車もギアが良く回る機種は値段も高くデザインも斬新だ。競馬の感性や職人のいなせさに加えて、プロゲーマーの介護士からエンジニアに転身した経歴は、多くのパソコン好きに取って憧れだった。僕もその一人だ。

僕の記憶では、ゲームセンターのコントローラーはジョイスティックで、卓球選手のように手首のスナップで動かしていた。ファイナルファンタジー6では、読書をしたりバットエンドを許容する大らかさがあったとしても、コマンドで波動拳を撃つのはそれだけですごいと思った。後になって、クラスで親切な人から十字キーを↓→→の順に入力すると同じように気の力が使えるという、昨今になってボタン用のコントローラーができたという、その場合、左と右、または上と下を同時に押したら、キャラクターはどんな動きになるのだろうと、素朴な疑問も浮かぶ、大学のころにはファミコンの十字キーが家にあり、キャラクターとの対話もそこで行われていたので、ゲームセンターにもUSB経由でコントローラーを持ってくるという事例もあった。その時はアンドロイドやらAIやらを操る術はあっても、場慣れしていないのでワンパターンな動きだねと言われていたが、その人は落ち込むのも早かったが立ち直るのも早かった。不思議な感じがした。またカラオケではゲームをクリアする回数は分からないが、横から実況する人が、リズム感覚があった。そこでPSPをカラオケボックスに持っていき。独自のケーブルで伴奏だけを鳴らして、アニメソング仕立てにするというマイナーな遊びもあった。

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イタズラに潜む人懐っこさ

イタズラを受けると心が萎える。
お節介と取られるかもしれない。
相手が話しかけられるとき、逃げ場がない場合では息がつまる。
イタズラには心が実は篭っている、それゆえに思い悩む。
それでもこちらの器量が足りなければ、舞台裏で不自然に滑って動けなくなる。
「国家を論ずるより、一家の献立を考えることの方が難しい」
という、政治や経済より家族の絆が第一。
発達障がいというレッテルの中で、なんとか落し物をしながらも一般的に戻ろうともがく、そう言った中で、相手にも共感はしていただける。
ただ、広告のベクトルに強くドライブされてしまう。
それだけ変化の多い、激動の世の中なのかもしれない。
ごうごうと嵐がやってくると、そこらで蹲っているしかなくなる、
やがて穏やかさが戻ってくる時に向けてささやかな心配りを残しておく。
落ち込んでいると、相手が優しく感じられる。
それでも泣き面に蜂という諺もあるくらいなので、なるたけ明るく保っていたい。
世代間の違いを見つめる、年代が50代以降の方はけじめを取る場合もある。
子供の頃は、
「お米の一粒まで無駄にはできぬ」
と祖父母が両親に聞かせた、それでも
「子供たちには躾で辛い目は合わせられない」
という見方から、精米機から少し目をそむけると、リビングにある炊飯器でご飯をよそった。いつものように焼き魚と味噌汁とご飯が揃った。
祖父母は、生活を共にした両親に比べると、とても穏やかだった。
初対面の同級生や、学校に行く前の両親はそこまで分かり合えていなかった。
僕たちはゆとり世代かもしれない。それでも学校に行けば、いいことばかりではなく、こだわりが過ぎて、痛い目を見ることもある。いつも、
「僕自身をうまく操縦できたらどれたけ自由でいられるだろう」
と思っていた。けん玉は上手く嵌らず、リズムを取ろうとすると、左手と右手に吊られて動く。それでも、学ぶことは自分の失敗を受け止めながら、いい方向に変えてゆくことだと考えた。そういった中で、社会人になるまでは、それとなく相手を観察することに慣れていなかった。
別に自分が勝手に振る舞いたいというわけではないけれど、意図のあるコミュニケーションをすると、相手自身の心が見えないことがある。それで、その相手と一時的にはトラブルになったとしても、長い目で見れば納得してもらえるかもしれない。
仮に、僕自身が正しいという思い込みに囚われていたら、相手の意見を聴くことは難しいのだろうか、それとも新しい知見を得るためなら、進んで間違いを認め、相手に教えを請いたい。
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