パーソナリティと現代の歩み

ぼくはあまりアイドルは分からないが、バラエティ番組は小学校のクラスで目立ちたがり屋がよく引き合いに出していた。いじられた側は端から見るとなにが起こっているかわからないのに、引け目に感じている。そういうときはなるようにしかならない。印象深かったのは、アシスタントディレクターは、テレビの端に待機している、そこでタレントがざっくばらんに語る。いじりがきっかけで筋力トレーニングを趣味にしたといとう男性歌手もいる。なにがおもしろいのかよく分からないが、ベースのフレーズを部分を口ずさんでカラオケを強要するという箇所もある。小学校の放送室にはカセットテープやレーザーディスクといったウォークマンなどの再生設備でなく、定番では登下校にパッヘルベルのカノンを流したり、昼休みにはゴーストバスターズのイントロを流すという、作業だったけれど、なぜその曲なのかはあまり深く考えたことがなかった。それこそ無意識で人気を取っている。

とんねるずがデデデーンとイントロを口ずさんで、歌手が気恥ずかしそうにしていると、バチコーンとディレクターがこづかれる。バチコーンは当時のガキ大将の口癖になっていた。

またあるときクリエイターを目指すような人たちの集まりで、渋谷のスクランブル交差点を見下ろすような定点カメラを起きたいとして、案としては月並みだったが、まるで芸人みたいなバイタリティで、それもいいかもしれないと乗ってみると場が和みそうだった。そのようにして、渋谷の交差点を栃木の映像同好会が、まるで現代版の日光江戸村のように映画のセットにすることになったという。ぼくにはすでにいくつか名作があるのに、そこまで映画化にこだわる理由が分からなかった。当時のテレビは映像技術は優れていたが、既存のマンガをリメイクしたものが多く、相棒のようなシンプルで強いメッセージ性があるオリジナルドラマは少なかった。かくいう相棒も実際には短編でまとまるようなコンセプトをあたかもウナギ屋がタレを継ぎ足しするかのようにして、奥行きを与えている。

ディレクターは、アニメやマンガが好きではないが、性的な絡みはないにしても意味ありげなメタファーがある、ジブリアニメは興味があると煙に巻いた。黒澤明がどんな人でも見方を変えれば主人公という象徴的な名言がある。

図書館では、僕が小学生だった頃は手塚治虫の番外編の陽だまりの木は、志村けんのバカ殿のようで、時代に沿ったまじめな描写だけでなくお色気も多少あって、ライトノベルが蔵書として本棚に並ぶ現代でも、魅力は色あせない。逆に火の鳥のギリシャ・ローマ編は僕こじんでは読み解けず、有名な人が書いているのだから絵も文も書けない僕が、評論しても何にもならないという先入観をなんとかフラットにしようと試みた。中国のスマートフォンでもアニメをモチーフにしたギリシャ神話のモデルがある。自分のというわけではないが、たしかにヒューマニズムを題材にしたドラマに感極まるときもあるけれど、ちょっとした雑談のネタになるようなきっかけは、客観的にものを書くために必要になる。絵や文を書いているときは、どうしても手が放せないし、政治的な関心も薄れてしまう。そういったときになりたくてそうなっているかはわからないが、どのグループにもジャイアンのようなリーダーがいて、その人が誇りに思えるような、気だてのいいキャラクターや、ちょっとかわいい女の子がいると、まあ続きを書けということになる。

戦争のように山場のある話は、あまりリアリティがなかった。弾がでるシリンダーが動いているニーズがない。フォークソングやあさま山荘の事案でも、僕が生まれる前で、ハイドライドやウィザードリィという機材を部屋に抱え込むようにパソコン通信をたしなむひとでなく、マウス一つでもマッピングができるようになったイースでさえ生まれる直前で、小学校の二年生の時にイラクがクウェートに侵攻して湾岸戦争になったというくらいで、それは当時の先生が疎開のまねごとをしていた。昨今ではF-35が青森で墜落したり、イージス艦が漁船と衝突したりという不祥事もあったが、イーグルやブルーインパルスはパソコンがタイプライターがだったころから空を飛んでいる。

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