ホームページ作りとその眺め方

初めて、WEB教室に通ったとき、何かホームページを作ることになった。
そうなると、メニューが英語になることが多い。英語のメニューの方がフォントが引き締まっていて、収まりが良くなる。普段何気なく覚えている風景に、枠組みが加わることで情報らしくなる。ちょうど、指で景色を四角く囲んで見ると、見えている視野が絵のようになる。
初めて、パソコンに興味を持ったときは、中学校で、フロッピーディスクで簡単なプログラムを作ったことだった。LINE ◯◯ で線を引き、当時家族が家計簿をパソコンで入力する作業から、PC-98を買ってきたときに、ついでにテトリスのゲームがあった、電子音に紛れてロシアの民謡が流れたとき、行ったことのない国の生活がふと思い浮かんだことが記憶に新しい。ゲームそのものはブロックをレゴのように組み合わせて、同じ列になった部分を整える作業だった。
それから、日本のPRGでも、ドラゴンクエスト3があって、ドットグラフィックのマップが、世界地図のようになっていた。アリアハンがオーストラリアのどこかにあり、スー族の村が新大陸の果てにある。その後の後継作は、同じマップにするわけにはゆかず、どこか幻の大陸になる。しかしながら、フィクションでも、どこか身の回りにあるものとの接点があると、だんだんとシンパシーができてくる。ゲームにはどうして熱中するのかはわからない。広告やデザインに魅力を感じるのはその中の人を感じるからか、それともその見せ方に積み重ねを感じるからだろうか。1980年には、映画ではパソコンが普及して、車が空を飛んだり、タイムマシンで未来や過去に行ったりというデジタルの普及を暗示していた。小学校の頃には、市立図書館の貸し出しカードがバーコードになっていた。パソコンはファミコンで遊ぶくらいで、アナログな感覚が残っていた。ガンダムはスーパーマーケットの面にあるカードダスで物語の断片を集めていた。
同時に海外のファッションや文化に、影響を受けることも多かった。新聞やCMには和製英語が伝わった。そういった中で、パソコンゲームは、和製英語を身近な範囲で翻訳している分だけ、手の感覚で、ページをめくるよりのめり込めるものがあった。ボタンを押した先に何があるか、気になった。大学でホームページを作っていると、ロールオーバーという、マウスの矢印が写真の上に乗ると、画像が別の画像に変わったり、ボタンが押されて凹んだりする。セル画に鉛筆で描いた画像を少しずつ定規で測って動かしてゆくアニメーションでは金髪のヒーローやヒロインが活躍していたものの、ボタンを押したり、写真に照明を照らすように透明度を変える作業にも何か意味があるような気がした。
図書館で、資料集めをしていると、通っていた学校によることがあった。中学校で同級生だった優等生が、高校の進学校に行くと化学と数学が難しい中学校の算数や理科とはレベルが違うという。僕は、塾に行っていないので勉強があまり得意ではなかったけれど、その参考書の写真が実生活に役立つ要素を扱っている建材のように見えて興味が増してきた。中学校では、歴史の教科書と、国語の文化史を眺める感覚によく似ていた。もしかしたら、進学校に通うことができなくても断片的に知識を調べることができるかもしれない。そうして、検索ボタンを押してみた。当時は人間だけでなくAIもおすすめのホームページを提案してくれることもあった。知り合いが、AIに推薦すると、ホームページが住所録に比較的登録されやすいという。先入観をなくして、画面の向こうの知り合いと協力関係を作る。そのことで社会をもう一人分だけ広く、安全にできる。今となっては、そのように作られたホームページも実際の人が目で見たり、数値を推し量って確認することでより具体的な形になる。自分とは違った視野を持つ人がいることは心強いと思う。
ゲームも面白いけれど、歴史の流れを可視化するシュミレーションゲームは、将棋や囲碁のように抽象的でなく、動きはあまりないけれど、百科事典を平たくめくるメディアはニーズがある。本は紙を重ねると、背表紙がかさ張って開きにくくなることがある。それに比べればパソコンの文章は、ボタンを押しながら平明にめくることができる。プリントされた参考書でも、普段とは違った視点になる。例えば、みなもと太郎のマンガの歴史は、コデックス装丁と電子書籍の2つのメディアがある。または、赤松健のJコミはPDFファイルにクリックできるバナー広告がセットになっている。情報には、幹があり枝がある。動きがあった方が面白いが、ゲームでも格闘ゲームはあまり強くない、反射神経で負けてしまうと全体図が掴みにくいこともある。それでも近年eスポーツが職業になるという動きもある。僕としては、情報を繋げる役割に携わりたいと思う。それは珊瑚の枝のようなものかもしれないし、藻のようなものかもしれない。設計図を想像することと、少しの行動と変化があれば、身の回りのものが新しく見えることもある。