可能性のかたち

良かれと思ったことが結果として無駄になると途方に暮れる。駅のホームでビールの空き缶を拾って近くのごみ箱に捨てようと思っても、手ごろなゴミ箱がない。飲めないビールの空き缶を持って電車に乗っていく。老練なギャンブラーによると愚痴をこぼさないことが大事だという。そこまで早く歩いていないのに、わっと立ち止まることがある。歩きながら考えているためだろうか、おかげでイヤホンを付けることもなく、退屈しない。しかしながら、ひとりの時間が欲しいこの頃だった。ここでぐっとこらえると落ち着いたひと時がやってくる。それは緊張と弛緩というお笑い芸人の心理からすると、報われるか、そうでないかの分水嶺だという。ここのところテレビを見ていない、僕はテレビを見たくないわけでもない。また相手のことは尊重して、むやみに逆らわないように気を付けた。また相手が話しているときに分かったような相槌をうつと、煙たがられることもある。気に入るかどうかの境目は目に見えない。もし熟練者や識者どうしの世間なら、諍いは起こらないかもしれないと期待することが、通りがかりに思うこともあるが、どこまで現実的かはわからない。

カメラの三脚があると、視点が定まる。どんな三脚がいいかをイメージしたとき、マネキンを自立させるのは難しいという。足に錘を付けるか、針金で支える必要がある。二本足で立っているときにもスタビライザーが作用している。ねんどろいどを自立させるのに専用の透明なジェルがあるという、手品の種というわけでもないが、これは透明なだけで実体がある。

続きを読む 可能性のかたち

まだらな心模様

話が噛み合わないというより、もともと嫌がらせをしたくてという人もいる。嫌がらせをするだけのスキルがあるので、それをどうだを言ってみたい。それもある程度物分かりが良く、世間知らずで、自分なりに公平だという価値観を持っているようなボンクラに、自分たちの挫折感を味合わせてやりたいという。僕は何かを間違えることはあっても、挫折したとは思わない。ちょっとつまづいたくらいで大げさな奴というくらいで。それでもまるで婦女子のような、お茶目なところもあるんだと、少し新鮮な気分ではある。

もし僕が筋トレなどのエクササイズをしていたとしても、それを見ている人が怖がってとか、負け犬の遠吠えをしたという風にツイートをするのは、なんだか、手段が目的化している気がする。別に重いものを持ったり、持久力を保つためにトレーニングをするなら、それが関係者に喜ばれるようにすればと思う。ある時、質問すると最近では苦労を前面に出すことがカッコいいというような風潮がある。少しでも相手が遊んでいると、それが鼻につくという。それはそれでストイックで良いことだと僕は思ったけれど、よくよく考えると苦労は負担を相手に押し付けるためのマスクのように使われている。そこまでマウンティングの題材にされてはと思うけれど、例えば会社でも一緒に協力したり、タスクをこなしたというより、誰それが抜けたということが、誰それと関係ない人の良心に訴えかける心理効果がある。そのようなテクニックを持っていても、その人が表に立つことができない場合もある。

誰かの持ち物が羨ましいと思ったことが人なら誰でもある。かつて中学校の学生のグループが、街で手持ち無沙汰にしていると、リーダー格が、勉強は苦手だし暇も自分の存在意義を磨くことがなさそうなので、アルバイトをすると言っていた。そのときから居場所を確保するためのスキルがグループの中で芽生えていたのかもしれない。僕は別にそうでもなかった。仕事は社会のためにすることで、それが何かに貢献できればと思っていた。一方で、漁師町では牡蠣の殻を剥くのが手速いなどの専門的なスキルが巷に存在する。もし食料を確保するという目的のためのそのような作法を身につけなくても、何かで代替できるかということと、職人的なスキルを否定することはまた要件が異なっている。実のところ、誰でも階級を作ってその中でコミュニケーションを取ることはある程度習熟するが、本来自分が何をしたいかということが分かりにくくなり、それでストレスも溜まる。経営者にしても信頼できる部下が自分のやりたいことができていることは稀で、望まぬものを与え、望むものを取り上げるというバランスから心理的に相手を載せている場合もある。利害関係を抜きにしても社会人になってからは友達ができにくいというところはあるのかもしれない。一方で子供の頃は、なるべくイジメられないように自分にないものを懐柔しようとしていたという側面もあり、友情も純粋とは限らなかったというところもある。社会的には優しいだけでは信用できず、悩みも解決しないとあるけれど、それで相手に親切にしないことが標準化されると困ったことなる。よくよく会話を聞いていると、誰でも何かを判断して裁こうとしている。もし否定された側がいれば悔しいかと思えば、別の相手にそれを行う。それでもそこまで何かを利用したり、否定しなければ日々やっていられないようなことがあるのだろうかとも思われる。もしそこで標準語ができたら、おそらくお互い何も言わないのかもしれない。

続きを読む まだらな心模様

心の扉とネットワークの関係

インターネット社会が憎しみを増すような怖さがあるという、かつては2ちゃんねるにも大学の時は怖くて書き込めなかった。相手から非難される事もそうだが、自分も気性が荒くなってもう一人の自分を演じようとしてしまうところがある。そこから耳寄りな情報を集めようとした事もあったけれど、いまでは2chビューアを見ることはあまりなくなっている。当時というより、1980年代のメディアや小説はかなり言葉が、不特定多数に向けるとトゲのようになることがあるかもしれない。日本の犯罪者数は世界に比べると驚くほど少ないというけれど、それでも潜在的なストレスがないわけではない。普段は温厚な人でも、大切な家族や友人のような人を損なわれたりするような場面では怒る事もある。先代から、無茶な喧嘩は良くないというけれど、かといってなんでも受け入れて、誰にでも気さくに接するというタイプでも理想的にはそういった形がいいけれど、あまり快く思われないというところもある。
僕は少し隙間時間があるとtwitterやSNSを見ていることがある。それでも執拗に監視するような人とは少し距離を置きたい、僕自身が全て正しいわけでもないけれど、何かあると同じことをする場合は、他のことが手につかなくなるような気がした。書籍やメディアでなく、ネット上の声にはその人となりが分かったとしても、不特定多数にプライベートを公表することになるので、なかなか難しい。社会人になってから自分を見失うことなく、誰かの役に立てるような場づくりができればとは思うけれど、集団の中で別に言いたい事があるわけでもない。
続きを読む 心の扉とネットワークの関係

相手の弱みにつけこまない道

最近の脅しは巧妙になってきている。直接でなく、間接的にというパターンが増えてきた。曰くセクハラやモラハラの技術を競っているという。その一方でなかなか一般的な価値観が得られない。かつてニュースのリツイートは、編集者を志望する人が、自らをキャスターに見立てて配信していたけれど、なかなか影響力が得られなかった。ニュースを配信する側の都合と、受け取る側の倫理観が合わない事が多いからだ。誰もが重要な役割を得たがっているけれど、それはそこで置かれた立場に満足していないという根拠もある。僕などは相手に要求をする余裕はあまりなく、自分のできることはいつでも手伝って欲しいというスタンスで、指導者が高圧的な態度をとっている場合は返って、時代の変化に乗り切れず、言いたい事がうまく伝わっていない状態だとも思ってやり過ごしている。
関係のない人を揶揄しているのであれば、特に気にすることもない。手書きでたどたどしく宛名も書かずに、エントランスホールやエレベーターに書かれた張り紙には哀愁を感じる。あれは僕のことじゃない、僕のスキをつこうとしてきた嫌がらせでもない。と言い聞かせる。団塊世代を動かすための理屈として、レシート一枚はタダだけれど、タダほど高いものはないというように、金銭感覚をくすぐるのが効果的ではある。それもエンタメ業界の一部で使われている放送作家の方言のようではある。仮に圧力を受けたとしても、そこで相手に謝ってもいい事がない、善意からお互いに負担が少ないように気を使うくらい。それでもそこまで体力が続かない、自分のことにもあまり関心がない。僕自身に特別なコストはかかっていない、それでも特段ないがしろにされているようにも思えない。日本では特定の個人に負荷がかかるような村社会になっていることもある。しかしながら、村と村同士の交流はあまりない。
続きを読む 相手の弱みにつけこまない道

疲れと向き合う場面

最近は疲れる、同じ空気を吸うことをなぜか強要される。嫌われないだけマシだと見方もあるが、一方的な関係は長続きしない。それだけ、ある意味では不安なのかもしれない。社会のシステムが人を使えば、それだけ生活が安定するようにできている。でも、用もないのに人を使っても疲弊してゆく。あるいは、やりたいことができないことの腹いせに、人を使い潰そうとしているのだろうか。なるべく人に使われず、僕も相手を利用しないようにしようと思った。エレベーターが疲れる。箱の中は密室になる。ボタンを押すと、入り口を開けたり閉めたりすることに使える。階数を選択すると、上下に移動する。このタイミングやわずか2畳ほどの空間で、息が詰まりそうになる。エレベーター自体は、産業革命の時期からあり、また、縄はしごの代わりにトロッコの原始的なエレベーターもあったかもしれない。最近では、エレベーターのボタン画面やその機能の使い方で、互いに比べることが増えて辟易している。
・エレベーターに入る時と出る時で性格が変わる人
入る時は、誰が乗っているかわからないので、縮こまっているが、
中で移動中に何もすることがない時間があるため、出る頃には人の癖を観察しようとする、
うまくいけば、先手を取って提案できるし、また愚痴のひとつくらい入れられるかもしれない。
「雨で足場が泥濘んだ工事でも、やっちゃえばいいんです。」
・エレベーターでそっと囁く人
2人以上の場合に多く、なぜか居合わせた僕が聞き役になるのか、なぜかこちらの話題に変わる。
明らかに聞こえているという状況になるので、話題を振って来る。それでも受け答えができない。
面白い会話なら、そっとうなづく、会釈するくらいしたいものだけれど、こちらが反省する内容なら納得がいくけれど、
なぜか詮索するような会話になる。
「あの人はスマートフォンを持っているけれど、最近はITで身代金の詐欺があるから気をつけてね」
建物の外に行けば、電車や自動車などの移動手段があるが、
5F以上の建物ではエレベーターが共通の移動手段になっている。
こちらが相手を打ち負かしても何もならない、
ただ相手から舐められると、こちらが社会に参加できなくなる。
椅子取りゲームに付き合わされている。
もしかすると身近なものでも、例えば襟だったり、シワだったり、靴の汚れ具合などから、人となりが判断されているかもしれない。ただ、誰かのために、何かを取りにいけば状態は変わってくる。他の人から見れば、薄汚れた人がそこにぼーっとして立っているだけに見える。
宅配ボックスを置くことに気がひける。宅配ボックスを置くと家の外の敷地からはみ出してしまうので、そこで軋轢が生まれると面倒だ。アマゾンでは宅配ボックスや、DIYで作る方法もインターネットで多く紹介されている。しかし荷物を待っている間、家から動けない、また誰が来るかもわからない。荷物は比較的朝早く配送センターについているようだったが、いつ届くかはわからなかった。自宅で待っていると2時間くらいして眠気を催した。すれ違いで、配達員はその20分くらい後だった。ただ、そうなると遅れたのが自分のミスになるので、急いで連絡すると。
「住所と名前を教えてください」
と聞き返された。どこに住んでいても仕方がない正直に答えようと思った。
「他の荷物で手一杯なので、もう少し待ってください」
うなだれたまま、再配達の手続きを取った。自分のミスなのだからどうにも強く出られない。
都内ではお店の商品棚に品物がたくさんあるのに、そのたくさんの中から一つだけ六角形の家具用のネジ一本でも探すとすると、途端にとても億劫で難しくなることもある。逆にちゃんとネジや食パンであれば、自然とどこかしっくりと来る存在感がある。エレベーターに乗った先では売店がないので、外に降っていくと、宅配便の配送センターがあった、休日で店舗がしまっているが、制服を着た従業員が通っていた。最近はコンビニのお弁当ばかりで、ちゃんとした食事を取っていなかったかもしれない。そこで小麦から作るドイツ風のパン屋に行ってみると、食パンを買ってカサが増えて、帰り道はそこそこ紙のバックで荷物を運んでいる風になった。すると、宅配ドライバーから電話がかかって着て、荷物を取り置きの分があるとのことだった。店舗はしまっているが、バックドアは開いていた。そのまま荷物を持って帰宅した、預けたものが自分の手で持てるので、効率は良くないが安心感があった。逆に、ただ配達するだけではお互いに何も生まれなかったかもしれない。
「そのまま持って行ってください。次の便までしばらくかかるので」
ただ業務システムと、実際の仕事内容の擦り合わせ。人は誰でも、仕事をすることで旅をするのだろうか、エレベーターでも、荷物の持ち運びでも、その中で忘れ物をすると途端に後悔にも苛まれるけれど。最近は社会の課外授業が充実している。願わくは、社会の中での実生活もそこまで贅沢ではなくても、
過不足がないように頑張りたい。