情報と考える習慣

情報を得る手段は、日々の新聞が一般的だ。考えることを続けて自分なりに貢献できる道を模索する。それぞれの意見や立場の違いを見比べる機会もあれば興味深い。SNSやブックマークは芸人の精神修業の場になっているが、それを日常に当てはめるのは必ずしも現実的ではない、また精神修業もなにかに依存している状態から自立する状態に導くことを目的にしているので、自分の軸をもって知見を見つけていきたい。

情報は無意識や心理的なバイオリズムの変化からも収集することができるが、自ら選んだものはそれだけでは確かなものではないが、考えるきっかけにはなる。記事の構成では、事実に基づいたものと、それを拡張した意見がある。事実は変えられないが、その見方を変えることで向きが変わってくる。伝え方にはこうあるべきというように、それがじつげんされていないが、書き手の立場ではこうありたいという虚構が書いてあるここともある。実際に素材がなくても、その味付けで調理が変わる。また面識のある人の場合、行動や思考の癖が気になって、それを元に感情移入するというストーリーをシナリオにすることもあるが、それが意図的過ぎるとリアリティを感じない。もし世の中のことが、世間話のように身近に感じられたなら、学習する手間が省けるかと思ったけれど、そうでもないようだ。なにかを批判的にとらえたい訳ではないが、自主性を得られないようなシチュエーションには疑問を持つことが必要になる。世間の価値観を読み解くためのノウハウを身に付けたい。

昨今ではテレビのニュースでは煽り運転が話題になった、乗り物を運転中にあおりという、形にならない方向づけにあい、前に回り込まれて停止させられたうえに殴打されたとので傷害容疑として逮捕されたことから分析が進んでいる。思い通りにしたいけれど、それがなんらかの事情でできなかった時に、強制することなく一方的に要求を突きつけることが煽り運転の心理状態を表している。要求とそれを受容する側のバランスが必要になるが、それが不均衡になった現象と考えられる。情報の流れが加速されることで、インターネット上でリアルタイムに相手の心理状態を把握することができるようになった。もしそれを記録に残したり、アルゴリズムにするにはある程度瞬発力だけでなく、それを習慣にする必要がある。

構造としては、一方的に決まったことをどう緩和するかがポイントになっている。関係性といえば微妙な表現になるが、そこには携わる人の心情や望まない状況を改善しようと試みていることが隠されている。現実に基づいたネタ作りも必要でないわけではないが、それが過剰になると意見によって事実が塗り替えられてしまう。新聞の記事をもとにそれに付加価値を加えることがテレビ関係者の役割というけれど、そこに特化すると、世間話を装った要求になってしまう、そこに潜在的に不平を持っている不特定多数のひとが誘導される。面白さが他人のあら捜しや、不幸自慢にならないように出口を探していきたい。そこから離れたいと思えたら、客観的になれるきっかけになっている。

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分かりやすさを選ぶ

不寛容社会の壁をすり抜ける必要がある、それは本当にそれを禁止しているわけではなく、向こうはそれなりに何ができるか、またそれがどのような影響になるかを推測したうえでの駆け引きだったと思われる。例えばテレビ越しに手品を見ていたとして、実は舞台袖に細ピアノ線や磁石が隠されているとか、またはカーテンの裏にハト小屋があるけれど、シルクハットのなかから唐突にハトが出たように見せるために黒く塗っていあるとか、壁の裏にマジックミラーが仕込んであり、こちらから向こうの様子は分からないが、向こうからはこちらの様子が分かるといったものがあるのかもしれない。それは実際のところ推測にすぎないけれど、自分が実際にすることと、方向性が異なる場合に、我慢の度合いを測るものがある。やりたいことができないことは仕方がないにしても、それを我慢する程度が、仕草によって読み取られることがある。

ニコニコ生放送のカメラ機材を使ったアニメのように仮想でない放送で、コメント投稿機能があっても、自由が発言ができず、何気ない雑談なのに、なぜかこちらが黙って落ち着いて聞いているとスタッフが喜ぶという状態がしばらく続いた。スタッフやキャスターは、時事問題や政治、経済の話をざっくばらんにするけれど、それに対して相槌を打つことも難しく、かといって価値判断が随所にちりばめられているので、まるでYESかNOかの選択肢をタイミングよく選ぶことが、うまく沈黙と平静を保てる方法ということになる。しかしながらそれはサブリミナルという、放送をしたり、文章を作成する人が喜怒哀楽の合間にこめた無意識に訴えるようなメッセージや、または、パワハラに見られるような、相手を矮小化して、課題を極大化するという着眼点のすり替えなども実際には存在する。

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言葉にならない微かなメッセージ

会話文を何がを抜いて動詞だけにすると誰かに依頼しているような感じになってなんとなく気がひける。普段もではあれやって、これやってとほぼ以心伝心で、たまにそれが気恥ずかしくなる。それが最近はまともな方向にシフトしてきていた。僕は割と古風だったのだろうか。とはいえ、子供の頃はテレビの教育番組ばかり見ていた。なので、相手から何かを押し付けられないことがある種慣れっこになっていた。多くの人が役者とはいかないが人気者を目指していろいろなことを我慢したり、または誇張したりしている。僕もその一人ではあるのだろう。それでも、だれかと競争すると大抵は何かの取り合いになる。ちゃぶ台の醤油差しを巡ってトラブルになったりと、共存するところでは段階がある。相手を妙に意識しすぎるところがある、その人の言うことを聞いていればその場は収まるのか、巷のおしゃべりを見てみると言い返さないから、言われたい放題になると言う。そこで適当に言い返しておけば、あいつは変わり者ということで相手の自尊心も傷つかず、その場をやり過ごすことができる。
昨今ではいろいろなものがバーチャル化しているが、それでも建設的な根拠は依然として根強い、それよりも何かを作ることを事前に確かめたり、意識あわせをするほうが漸進的なように思われる。挨拶をすると言い返せないという感じが常にある、それでも日がまだ浅いので、ある程度長い目で見て、適度に相手を余裕を持たせることも大切なように思われる。常に何か用事があるという、状態がSNSでは生まれやすい。最近では、SNSでも特に用事がないのに、用事があるように装っていることが気疲れするようになっている。僕はインターネットで一応仕事を探したりしているので、どうしてもその気配が次の日に筒抜になっていて、それとなく郵便局の伝票がエレベーターに貼られていたりすることもある。だれかと関わりたい、それもその人に負けまいとするようにという気がいろいろなところで張り詰めている。誰しもが暇であることに耐えられない。かといって無理に何か用事を作ろうとしても、ある程度タイミングが重なってしまう。言葉は通じるし、計算は何度も確かめれば、その時点では優位になる。そこで素直に感謝でもしておけばある程度やり過ごせそうではあるけれど。普段の生活や、作業の中で、何か新しいことがあるとすればと思索を巡らせる。それぞれの居場所があることと、期待していたところになんらかの事情でできなかったとしたら、だれかに辛く当たりたいときもままあるのかもしれない。そういたものは、ただぼーっとして眺めているだけにすることにしている。
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