見えない作用

機嫌は秋の空のようなもので、コロコロと様子が変わる。芸能レポートが過熱していると、真面目な職場でも揺り戻しが来る。普段我慢して、世間や上の立場の人から一方的に嫌がらせをされたりしている分、だれもが優しさより辛さのほうが多く、努力や我慢が報われないと感じている。そういった雰囲気にしたのは、あるクリエイター講座に通っていたカメラマン志望の男性が、渋谷のスクランブル交差点をただ録画したいと目論んで、ろくにデッサンもしないで、写真に被写体を収める。一種の売名行為のようなものがあった。そういったものは渋谷や原宿に特有のもので、ハロウィーンのイベントに乗じてお酒に酔った勢いでワゴン車をひっくり返したりなど、普段できない行為をして自分を大きく見せようとする。

たびたびスクランブル交差点の人生模様がみたいだとか、知り合いが美術の個展を開くなど、例えば僕はコミックマーケットやライブ会場などの駅前でジャグリングやパントマイムをしている人は自分より優れた感性や能力の持ち主だと思うけれど、法的にはライブイベントに集る一種の物乞いと同じで、勇気をもって無視することにしている。そのほうが作品を公平に見ることができるからだ。

しかしながら職場のぎすぎすしたムードも、とある麻雀サークルの和やかなムードによってわだかまりが解けていった。僕はギャンブルは苦手だけれど、意地の張り合いや忖度を解消するのは相手を傷つけまいとする優しさや論理性ではなく、多少ラフでも人間的なテクニックなのかもしれない、しかしながらもしそのコミュニケーション能力に秀でていたとしても、それが持続するとは限らない。競馬が娯楽だとわかっていても、それがないとよく知っている友達とは愚痴や労いもできるけれど、そうでないとたとえ正論でも認められないというグループ独特の雰囲気がある。カラオケやギャンブルも戦後の復興を東京オリンピックと共に支えてきた文化の立役者という側面もある。一方で、男ならという頼もしいものの、芸のためなら女房も泣かすという男性社会特有のダンディズムに支配されている。参議院は衆議院と異なり比較的芸能人が多く誠意参加しているので、羨ましいのも無理もない。ギャンブルとエンタメのほかに心を癒せるものはないかと思う。

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思いやりの側面

良く察することができる人がいるとしても、今回はすこししんどそうだった。僕は相手には元気でいてほしいと思う。つられて緊張したり畏まったりしてしまう。ポケットに入れるという行為も、普通ではなんてことはないけれど、それはシェアされないということを示唆してしまう。そのようなつもりはないと愛想よく接する必要がある。そういうときに素っ気ない態度をとってしまうと相手にいらぬ誤解を与えてしまう。僕は遠慮するときも、これが僕にっは十分なので結構ですということをもし親に言ったとしても、善意なのか押し切られてしまう。あるいはある列にもう一人いて、その人に気が付いてほしいということを暗に黙っておいて、あえて聞こえやすいように声をかけて、周りを見ないで愛想良くすると、偽善のように思われるという応対もあった。だれでも少なからず一生懸命で、毎日が緊張と義務感の中で暮らしている。僕のまわりにはみなだれも賢くよく気が回るが、新しいことがなく、だれもがそれを続けようと思わない。学校の部活動はポジティブに続けたいということを話してくれる人はほとんどおらず、大切なことは我慢の中にあった。別にプログラムを書くこともモノづくりをすることも、たまには想定外の状態になることも、ケアレスミスをすることも含めて、僕には得難い経験だと思う。

社会人になると、ギャンブルや作法が妙な存在感がある、だれもが完璧にはできないけれど、それをやりきらずにはいられない、それをすることで精神的な修行や自分と向き合えるようにも思える。そこには誰が優れているとか劣っているというムラががなく、ちょっとした癖や姿勢がその場の空気と連動して、気持ちがまとまっていく、そこではいくら言葉にしても意識のほうが素早く確実になっている。これが済めば比較的落ち着くと思うと変に期待して、上手くいくものもそうでなくなってしまう、そのためにある程度そういった膠着状態も有意義に過ごそうと考えるようになった。

自分はどちらかというといじめられっ子で、リーダー格には強く出られないが、ちょっとぐらい悪口を言われても傷つかない、あるていどそうった率直な意見があってもいいとも思う。とはいえ、こちらの要望は通らないが、相手の要望は一方的という状態になると、勝ちにはこだわれないが、それを受け流さないと話が進まない。誰しも目的や行動方針があるわけではないが、思っていることと逆のことをほのめかしたりなど無意識に働く掛けられると、ガードしきれずにマインドコントロールされて考えることだけでなく、息苦しくなることもある。僕が過ごしている限られた世間に明確なルールや、価値観があるわけではなかったが、ちょっとしたことが妙に気になってしまうことがある。とはいえ僕は客観的に意識ではなっているが、歩いているときはおそらく肩は利き腕のほうに微妙に傾いているし、姿勢もあまりいい方ではない、それでも平明であろうと心掛けてはいる。それを声高に主張してもあいての事情にそぐわなければ伝わらない。とあるメディアでは自慢は相手の気分を害するのであまり建設的でないが、編集者の間で自己犠牲を美化する新興宗教が存在感をもっている。日本は村社会ではあるけれど、多神教で一様ではないし、周りの人にもある程度の現実感覚は持ち合わせているようにも思われた。僕がそれが理不尽だといってもそれはわがままにも見える。

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気分に左右されない理性

誰とも争わないためには、相手の願望に耐える必要があるのだろうか、あまり能動的に過ごしてこれず、基本的に会話は相手が有利な状況で進む、それは何事も都合よく上手くいくとは限らないし、相手が苦労したり、ノウハウや概要を知らないなかで、比較的に楽をしている人がいれば、感情がそちらに向く。例えば草刈りの丈を揃えるなど、バランスを取ろうと同調圧力が動く。しかしながら、そのベクトルも本来、話題や注目を集めようと思って常識や道徳を時にはなだめ、またあるときは脅し、すかし、などあらゆる方法をとったところで、北風と太陽のように、だんだんと効果が薄くなっていく。

例えれば、ドラクエで無難に進めるとしたら、パーティーを全員戦士か武闘家にして、ひたすら経済力と労働力を足していくというやり方に似ている。かといって、好奇心を持ってスキルを高めようと思っても、それが他の誰かにも一般的に役立てる方法にはなりにくい。武という漢字は矛を止めるという部位からなっている。しかしながら、現実は意地の張り合いやとうせんぼなどが横行している。

利害や関係性がなかったとしても、エンターティメントは暇な人の感情に入り込んでいく。欲を消費するのでなく、消費させ、欲から宗教的に開放させようとする。親分格を批判すると見せしめに合うか、または呪われる。もとより、対して期待を持つこともあまりなかった。ただただ良かれと思っただけだった。もし相手が性格があまり良くなかったとして、その日のうちに手の内を返すことは道義にもとる。はじめは社交辞令だったが、あとあと困ったことになると、相手を切り捨てる。僕はいつも切り捨てられる側だった。そのようにして不意打を重ねたとして誰に功を誇るのだろうと思う。

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気づきの可塑性を根付かせる

秋雨が長引くに連れて、8月に太陽電池を揃えたことがなんとも雨道具になってしまって、気分はあまり優れなかった。とはいえ、なにもない状態ではさらに鬱々とした気持ちになる。元気が出せないのは皆同じという状況が続く、おそらく今月末まで雨はやまず、たまに晴れ間が覗いても束の間という経験を余儀なくされる。猛暑に続き、大雨、パソコンがあれば、雨露をしのぎながら、何か元気づけることができないかと思っていると、外を歩きたい気持ちが募る。雨とは裏腹に心は乾いている。それを相手に示すわけにもいかず、どうにもまずはその場がないと他にも続かないよと言い切るしかなくなる。そのようにして情に竿ささば流されるというように、うだつが上がらなくなる。

編集者も自動化されることを危惧していて、とりあえず根も葉もない理想を並べては、勧誘を繰り返している。巷でも会話の元になるのは実作業だけでなく、そこに付随するところで、解決すべきというより、お互いにやりやすいようなという対策がなかなか見えてこない。子供の頃は紙が木からできていることを知っていたことで、何かを読むことが抵抗なくなったものの、プラスチックは安っぽいものでもなく、できたてのプラスチックはシャボン玉のような虹色をしているという。元々は、プラスチックも石油から作られる。その石油は生物の化石で、スーパーマーケットや小売店で売っている直線的でないプロダクトは生命の神秘が作り出している。固すぎず、柔らかすぎず、見通しも透明。元々は爪が肌を透けて肌色に見えるような細胞でプラスチックはできているのかもしれない。

秋になって温度は平熱に近づいてきたものの、何処となく水っぽく、見通しが立たない。経済的にというより、日が当たらないという環境的なところが心理的に軋んでくる。そういったときに、支離滅裂なメッセージを見たり聞いたりすれば、誰でも気分は優れず、より良い判断もしにくくなる。時期的には行楽日和でもそこまで、余裕が持てず、かといって自分のことで精一杯、そういったときに他にどのようなことを改善すればいいのか、理想的には他人と自分の接点にミスがないようにすることが無難だ。心理的にもあのときミスをしなければと引きずることもしばしばある。とはいえ全くミスをしないことを初めから想定できることも少ない。

社会に出て、役職についていたり、何かのリーダーをするとすれば、ついつい仕事に自負心が生まれる。それで周りが良くなればいいけれど、実際には家族のように、機能的でなくてもそのように格が付いている。それは、言葉を学んだり、理由を考えるより、気を使うべきは格だという。とはいえそれができ始める段階では、それが不利で不確かになることもしばしばある。また、人によってこの人には強く出られるが、またこの人にはそうもいかないという相性もある。そういったときに、なるべくはすぐには効果が出なかったとしても、続けた方がいいことを模索していきたい。

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