巷の素描

男性構成比が放送作家という業種が仲間内でスラングのように使うセックスという言葉は、異性が交わるというそのままの意味合いではどうやらないようだ。また、そのようなざっくばらんなやり取りが滞ると、大げさに少子化うんぬんと言ったりもする。ともかく、クラスで一人はいるような人気を取ったり、他人から注目されたいという性格がある。

SNSではとっつきにくい専門家より、多少チグハグなところがあっても、寛容なパーソナリティのほうが、巷を明るくするという。とはいえ、発信元の本人が詭弁を弄し、人の性であるかのように、世間一般はではなくで、あなたがでしょうという、太宰治の問答のような堂々巡りになる。だれでも、得意げに当たり前といえる分野があれば、専門家でなくてもセミプロのようになれて一目置かれるようになりたい。しかしながら、どのような世界観かと尋ねると、織田信長かアドルフ・ヒトラーや第二次世界大戦という、およそお笑い芸人や放送作家のイメージとかけ離れた極端な例だった。そういえば子供でも怖がったりする、もしそこそこ判断力のあるマセガキだったら、振り向いてくれないとして、どんどん狼少年のようになる。満たされない心が、苦労の後に幼稚なキャラクターをひそめる。

芸能関係では、演者も目立つけれど、それを収集する編集者もまた、舞台を支える。とはいえ、編集者は定年の65歳をを過ぎた権威がおり、その界隈では徒弟制度がまだ残っているのか、あるいは、編集だけではオリジナリティが出しにくいのか、喫煙所で交わされるような、愚痴に関係者が合わせている。

また、高齢者の麻雀のサークルが、にわかに雰囲気を粟だだせると、関係ないとはおもいながらも、高齢者層が英雄譚を語り始める。それは若い層が関心がないのか、高齢者が干渉してくるのか、なんともいえない。

続きを読む 巷の素描

ITと自主的な探求

モチベーションを上げる手段は、勝負事に限らない。勝ち負けに拘らず、それは人を熱くする。平日でも休日でも人を人らしくする。それでもいつまでも勝ち続けることはできないし、またそれで周りが幸福になるとも限らない。モノが豊かになると、果てしない疲れと向き合うことになる。疲れないで、普通でいられる事が失うものが少ないけれど、必ずしもその状態を確保できるとも限らない。そういうときに、何か負担にならずに、取り組める事があるかということをよせばいいのに考え始めると、周りのものが手につかなくなってくる。
手工業に比べると、電子工作、アナログに比べるとデジタルは、手による調整の範囲が狭くなる、それでもその分野に可能性を感じてそこに最適化させてきた。そうなると逆の作用が動き出す、何かを禁止されたり制約されることで返って新しい別のことをするきっかけになる、また相手に同意を押し付けないで、自分で物事を解決するわずかばかりの元気が出る。あるところでは、画像がアカマイというハワイ語のお祝いのような意味合いのサーバーがあった。Webデザイナーや営業はそこに画像をプールさせるたびに、申請が必要になった。デザイナーや営業もプロのカメラマンやイラストレーターでない分、これが場の雰囲気にあっていると思われても、その選択の根拠を相手に伝える事が唯一ミスをしない事くらいしかなかった。ミスの少ない作業は担当者が慣れているため、おそらく性能や表現性の高い可能性があるという認識があった。ところが、あとで考えてみると、必ずしも僕らはそこに特別な何かがあったわけでもない。よく産業では、アートは工芸にはならないが、工芸は積み重ねる事でアートにも見えるという文脈がある。それでも、デジタルでもアナログでも人間関係が固定化されてくると、その範囲でもない、人はある作業をするためだけに存在するのかというジレンマもある。
日常に、E-inkの汎用性はスーパーの商品タグにもその原理が使われている。電子の+-を表示の時に入れ替える事で、値札や商品名をそのお店の在庫や商品情報が更新されるタイミングでだけ更新される。それに比べると、WEBページはいつでもアクセスしたり、更新できる一方で、常に画面が表示されている必要がある。スーパーの商品タグが、後のamazonDashButtonにもその面影がある。例えば、画面がフィルムのように曲がるディスプレイでまだUSBやHDMIピンになっていなくても、そのディスプレイが映る仕組みがある程度想定できれば、タブレットだけがイメージを伝えるものとも限らなくなる。今の所、USBケーブルはシリアル通信と、給電を同時に行える2本の電線だけれど、その仕組みに乗っかって、矢印を動かすマウスが動いたり、液晶画面に映像が送られたり、ウォークマンに音楽や映像のデータが送られたりする。
つまるところITは、そこで現実にあるものを量子化して、それをどこか別のところに送ってそこで組み立てる転送手段のようなものともイメージされる。リンゴがそこにあったとして、それを何等分というのは、より細かい単位に分ければ、それがスムーズになる。しかしながらそれ自体が新しいリンゴになることは難しいようにも思われる。端末で映像や音楽をやりとりしても、それをよりよくしたり、八方手をつけてその素材を飾りたくなったりするけれど、実のところはありのままにそれを供する事が、ものの見方を身につける習慣になると思われる。
続きを読む ITと自主的な探求

習慣を作る小さなこと

僕も含めて、素直になれないときもある。それでも多少、当てはまることがあればそうだねとは答える。でも他人がどうかは知らないけれど、家族での会話はそれぞれ置かれた状況が違うので、なかなかかみ合わない。近くと、迷惑で、遠ざかると寂しがるという事がある。ちゃぶ台のそばの置物をみると、しばしば有名企業のCMが入ったアイテムもいくつかある。メッセージは意識した事より無意識で伝わる事が多い。家族の言うことを逐一聞き入れようと思ったが、そこでの教訓は、家族以外で友人を作る事だった。そうでなければ、その中でしか通用しなくなるとからだという。するとそこには矛盾が生まれる。家族に嫌われないようにそこそこ言うことを聞いてもこちらのためにならない事もある。いくつかダブルバインドに似た状況も生まれる。そう言った中では、自分の意見を相手に強要しないでも、仕方なく歩み寄るということを自然に覚えていた。逆に社会でどこかのグループに入ると今度はそのメンバーと家族のように接することを勧められる事が多いけれど、そこでも元の家族の体験が作用して、自らでできることを自主的に探すという原動力にもなる。
プライベートで趣味が近い人にあったとしても、大学などではあまり仲がよくなれなかった事もある。趣味とは言ってもタダのものは少なく、何か対価が生じてそこで、損得ができてくるとなんだか気がひける。あるひとは趣味でこそ仕事らしいものがもっとも地味で持続性が高い。ゲームではテトリスやオセロは単純で誰でもルールを覚えられるけれど、昔から今までずっとなくならない。逆に、かつてのシューティングゲームやリズムゲームは、時代を経るごとに派手だったり、動きが多いものがあるけれど、それを持続してみる人はあまり多くない。趣味については、世代を経ると我慢比べになることが多い。例えば朝一番に洗面器で顔を洗っているときに、水泳の呼吸の練習ができるというけれど、それによって強い心が身につくかどうかは正直わからない。子供の頃に運動中に水を飲むことが禁止されていた頃も、それが慣習になっていた頃は、隣同士でどれだけ我慢ができたかを認め合ったりしていたが、通勤先には自動販売機が、自習で行く先には水飲み場があり、あまり成果は出ていなくても喉を潤すこともしていた。今までは我慢によって習慣を決めていたが、ある程度自ら必要なことをおさらいして習慣を自分で作ることでも体を有効に使えて、そこまで滝のように汗水は出ないけれど、太ることもないように思われる。
苦労することが悪いことではないが、苦労を美談のようにしてしまうと、おそらくエネルギー効率は良くないことの方が多いように体験からは学べた。しかしながら、今まで作業することが意思決定のスピードと工夫を要求するビジネスからは相対的に生産性がないことのように思われていた。何かに夢中に打ち込めることが、相手を選べないこともあるサービス業では、手を動かしたり、動きがあったりすることがリフレッシュになるという。一方で作業は何かの工夫を引き出すための型のようなもので、剣道の素振りに似ている。一定のリズムで続けることが大事だけれど、それだけで問題が解決されることもあまりない。予定こそ立てられないものの、作業が何かに遮られることが少なかったので、比較的敵ばかりでもないような気がしている。それでも、インターネットでは、頭を使うとそれだけ効率が良くなる一方で、他人を出し抜くことに快感を覚えることもしばしばある。人それぞれの人生で悪友がいる。その悪友のことは気に言っているわけでもないが、赤の他人にとやかく言われると無性に庇いたくなるということもある。それでも家族や悪友と色々あったかもしれないが、自分で判断できることは意外に多くないのかもしれない。
続きを読む 習慣を作る小さなこと