ブログの様式

かつてブログを自宅サーバーで作っていたころの木目の画像はなくなってしまった。角丸のUIはベニヤ板が元になっていた。ブラウザの白い画面をベージュにしてテキストを読みやすくしたりと、それ自体は何ともなかったし、またデザインのセンスも必要ではなかったが、素養にはなるのかもしれない。movableTypeというPerlのCMSがPHPによるwordPressに比べて、HTMLファイルが実ファイルであるので、バックアップしやすいという仕組みも、サーバーやPHPのアップグレードによって、更新されていった。

キャタピラ式のモデルといえば、ジブリ美術館で買った、おもちゃの戦車のプラモデルを組み立てていたことがあった。プラスチックの爪を集めるとピアノの鍵盤のようなキャタピラになり、砲塔は中世の小屋が山に着いたような、まるでハウルの動く城の模型のようなものだった。プラモデルにはモーターは付いていないので自走することはできなかったが、動きだしそうな造形ではあった。そのプラモデルは塗装にラッカー系塗料を使い、ピアノのように白と黒に色分けしていたが、結局完成することはなく、数年後に中国から輸入したraspberryPiとモータードライバーに使ったキャタピラクローラーでその面影が蘇ることになろうとは思わなかった。森博嗣の科学読本というQ&A集に、キャタピラー式の乗り物がタイヤの自動車に比べて操作性が確保できるかという点で、2つのモーターを交互にコントロールできれば、科学的に道路を探索可能と記載があり、ブラウザ上にファミコンのように十字キーとブレーキを付けると、無線の伝わり方にもよるが、おおむね操作できそうだった。またキャタピラーはショベルカーなどの作業用車に使われることがあるが、バイクの前輪がタイヤで、後輪がキャタピラーという変わった乗り物もある。ともかくかつてはキャタピラーをひとつずつジョイントさせていたので、プラスチックのキャタピラーも、1ブロックずつ長さが調整できるようになった、とはいえ、微妙にベルトに撓みがあったほうがモーターに負担が掛からないようだ。森博嗣は、ジャイロモノレールのようにモーターの回転がバランスをとるのに有効だとしてその復刻を手掛けていたり、蒸気機関車を再現したりしているが、キャタピラー式の乗り物が意外にもエコロジーで、作業用だけでなく乗用車にも活用できることに着目できる観点があったことは想定されていたかはわからない。キャタピラー式のセグウェイがもしあったとしても、公道を走れずラジコンと同じ扱いになるけれど、自転車や自動車、電車だけが人や物を運ぶ乗り物とは限らないと考える。

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枠組みとしての言語とその準備

Javascriptは、なにかを動かすための補助的な役割だと思っていたが、フレームワークとして何かの構造として使う場合にはanglarJSが最近では、多くのプロジェクトで使われているようだ。日本語では複雑な用語が並んでいて、わずかに英語の意訳と、クラスの設定などから類推することで、概要をつかもうとしたものの、プログラムとしては何かをコンパイルして、アプリケーションにするという一連の流れから把握した方がわかりやすいようだ。パソコンのOSがWindowsでもMacでも、ローカル環境を作ることの位置と必要な事柄を把握することがまずは準備として必要になる。かつてはブログでもローカルにPerlやPHPをインストールしてその中で、テンプレートを作ったりしていたけれど、最近では、その作り方も単純なレゴのようなものにするまでにはある程度、理解を深める必要がある。慣れないうちは何度かインストールし直す必要があるということ経験談を耳にする。当初はブログでも、何度かインストールとアンインストールを繰り返していた。いまでも骨子になるのは、日々の更新で現状ブログとして使っているものより、なにをどう作ったり、書いたりしたいかだけを考えている。それはなにもないところからアイデアを一つだけ生み出す作業になるけれど、実際に業務として活用する場合は、共同作業ということを踏まえて、更新したファイルや、ルールをだんだんと覚えながら、その中で工夫していく必要がある。参考書にも元々はホームページの更新をしていたり、セミナーを開いたりしていた人が、システム開発やフレームワークの解説に変わっている。そのことと、英単語やプログラムの仕組みを覚えることとどのように関係するかもある程度想定していければと思う。
Macもデザイナーが使う直感的なパソコンというだけでなく元々はlinuxから派生した通信ネットワークのためのパソコンでもある。一台で作業したり、何か変わったことをするよりは、そこでどのような道があり、どのような手段があるかを知っておく必要がある。街の端から端まで歩いていると日が暮れてしまうけれど、バスや電車などの公共交通機関を活用すると目的地に予定を建てながら到着することができる。料理でもいつでも一から作っていると、メニューがなかなか揃わない。しかしながら、フレームワークやツールが万能であるとも思われない。さしあたりはフレームワークを知っていると聞かれても戸惑わないくらいには準備しておきたい。また、英語圏ではどのように紹介され、日々の業務に活用されているかが、YoutubeのAnglarJSの講演や、参考書からでも具体的に想定できればイメージも掴みやすいかもしれない。一人で本屋に出かけるとIT関係の書籍は、自宅でパソコンを持っているし、当面のところそう行った職業についているので、その界隈をよりよくするアイデアやスキルを磨きたいと思っているものの、なかなかプログラムのロジックに詳しくなるきっかけが掴みにくい。英語にもビジネスの取引に使う表現と、プログラムの材料に使うキーワードでは、同じアルファベットを使っているのに、そこにある背景がまるで違う、いつかは英語の組み合わせをその場の心情と目的に合わせて、意図や携わる人の気持ちを考えながら具体的に仕組みを作っていけたらと思う。そう考えると、街を作っているものが、実際の建物や店舗やインフラといったハードウェアだけでなく、ソフトウェアでも色々な工夫が日々行われていることが伺える。
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ホームページ作りとその眺め方

初めて、WEB教室に通ったとき、何かホームページを作ることになった。
そうなると、メニューが英語になることが多い。英語のメニューの方がフォントが引き締まっていて、収まりが良くなる。普段何気なく覚えている風景に、枠組みが加わることで情報らしくなる。ちょうど、指で景色を四角く囲んで見ると、見えている視野が絵のようになる。
初めて、パソコンに興味を持ったときは、中学校で、フロッピーディスクで簡単なプログラムを作ったことだった。LINE ◯◯ で線を引き、当時家族が家計簿をパソコンで入力する作業から、PC-98を買ってきたときに、ついでにテトリスのゲームがあった、電子音に紛れてロシアの民謡が流れたとき、行ったことのない国の生活がふと思い浮かんだことが記憶に新しい。ゲームそのものはブロックをレゴのように組み合わせて、同じ列になった部分を整える作業だった。
それから、日本のPRGでも、ドラゴンクエスト3があって、ドットグラフィックのマップが、世界地図のようになっていた。アリアハンがオーストラリアのどこかにあり、スー族の村が新大陸の果てにある。その後の後継作は、同じマップにするわけにはゆかず、どこか幻の大陸になる。しかしながら、フィクションでも、どこか身の回りにあるものとの接点があると、だんだんとシンパシーができてくる。ゲームにはどうして熱中するのかはわからない。広告やデザインに魅力を感じるのはその中の人を感じるからか、それともその見せ方に積み重ねを感じるからだろうか。1980年には、映画ではパソコンが普及して、車が空を飛んだり、タイムマシンで未来や過去に行ったりというデジタルの普及を暗示していた。小学校の頃には、市立図書館の貸し出しカードがバーコードになっていた。パソコンはファミコンで遊ぶくらいで、アナログな感覚が残っていた。ガンダムはスーパーマーケットの面にあるカードダスで物語の断片を集めていた。
同時に海外のファッションや文化に、影響を受けることも多かった。新聞やCMには和製英語が伝わった。そういった中で、パソコンゲームは、和製英語を身近な範囲で翻訳している分だけ、手の感覚で、ページをめくるよりのめり込めるものがあった。ボタンを押した先に何があるか、気になった。大学でホームページを作っていると、ロールオーバーという、マウスの矢印が写真の上に乗ると、画像が別の画像に変わったり、ボタンが押されて凹んだりする。セル画に鉛筆で描いた画像を少しずつ定規で測って動かしてゆくアニメーションでは金髪のヒーローやヒロインが活躍していたものの、ボタンを押したり、写真に照明を照らすように透明度を変える作業にも何か意味があるような気がした。
図書館で、資料集めをしていると、通っていた学校によることがあった。中学校で同級生だった優等生が、高校の進学校に行くと化学と数学が難しい中学校の算数や理科とはレベルが違うという。僕は、塾に行っていないので勉強があまり得意ではなかったけれど、その参考書の写真が実生活に役立つ要素を扱っている建材のように見えて興味が増してきた。中学校では、歴史の教科書と、国語の文化史を眺める感覚によく似ていた。もしかしたら、進学校に通うことができなくても断片的に知識を調べることができるかもしれない。そうして、検索ボタンを押してみた。当時は人間だけでなくAIもおすすめのホームページを提案してくれることもあった。知り合いが、AIに推薦すると、ホームページが住所録に比較的登録されやすいという。先入観をなくして、画面の向こうの知り合いと協力関係を作る。そのことで社会をもう一人分だけ広く、安全にできる。今となっては、そのように作られたホームページも実際の人が目で見たり、数値を推し量って確認することでより具体的な形になる。自分とは違った視野を持つ人がいることは心強いと思う。
ゲームも面白いけれど、歴史の流れを可視化するシュミレーションゲームは、将棋や囲碁のように抽象的でなく、動きはあまりないけれど、百科事典を平たくめくるメディアはニーズがある。本は紙を重ねると、背表紙がかさ張って開きにくくなることがある。それに比べればパソコンの文章は、ボタンを押しながら平明にめくることができる。プリントされた参考書でも、普段とは違った視点になる。例えば、みなもと太郎のマンガの歴史は、コデックス装丁と電子書籍の2つのメディアがある。または、赤松健のJコミはPDFファイルにクリックできるバナー広告がセットになっている。情報には、幹があり枝がある。動きがあった方が面白いが、ゲームでも格闘ゲームはあまり強くない、反射神経で負けてしまうと全体図が掴みにくいこともある。それでも近年eスポーツが職業になるという動きもある。僕としては、情報を繋げる役割に携わりたいと思う。それは珊瑚の枝のようなものかもしれないし、藻のようなものかもしれない。設計図を想像することと、少しの行動と変化があれば、身の回りのものが新しく見えることもある。

場当たり的でないものを作る言葉

なるべくは、できることに取り組んでいたい、その途中で話しかけられるとタイミングが良くない。いろいろ考えてもエンターテイメントは、転んでから起き上がるときが見どころであるように思われた。しかしながら、それだけを続けているとパフォーマンスが続かない。実際のところ何かに集中できる機会は限られている。
相手を気にしないで何かに取り組めることが単純に羨ましいということもある。現実には機会を選ぶことができず、すぐに成果が期待できることもその時点ではわからない。その分からない部分から、この人はここまでやってくれるというところで繋がりができて行くこともある。しかしながら、ある種、誰かに好かれることが、誰かには気にされないという裏返しになることもある、そうなると、ちょっと気を引こうとして色々とちょっかいを出す。すると、すでに何かには取り組みたいけれど、そのタイミングで話を持ちかけられると困るということもすでに体験している。そう言った場合は、都合や空気の読み合いになることもしばしばある。そうなると、気が利く方が有利にはなる。実際に、昭和の時から日本ではすばしっこい方がパフォーマンスが出るようになっている。そこにはある程度適用した方がいい。それでもそこにかかる焦りもまたもう一つの側面ではある。続ければ続けるほど、悩ましい要素がある。
先週末にかけて、タスクを集中力が途切れそうになりながらも、なんとか自分を奮い立たせて時間内に終わらせようとした。相談して見ると、頼まれたことは断れないという禅問答になり、できることも限られてくる。新しいことをその間に覚えようとするとなかなか入ってこない。その時に、2ヶ月前に実装したLED7セグナンバーディスプレイの3分タイマーは、ライブラリと組み合わせることで、iphoneのストップウォッチとの誤差がなくなり、タイマーとして動いていた。接触が良くないのか判断がつかなかったけれど、新しい操作ではナンバーディスプレイが上手く表示されないこともあった。ところが、タイマーを起動してからまた次のコードを動かすと経験的には動くことが多かった。もし不具合があったとして、そこから無理に直そうとしたり、改善点を聞こうとすると、場の雰囲気とかみ合わないと、こちらが勘違いしていたり、何かを見落としているという事が見つかって、そこでつまづく要因の一つにもなる。ともあれ、先行きがあまり不透明な中で、何かに一生懸命になることはある意味では先のことを考えないということでもあるので、集中力が途切れた時に不満が出たりすると後で引っかかることにはなる。
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目線を向けて心の空を眺める

僕は一点に集中する癖があって、それを慣れていないと言われることもある。理想的には、集中力が適度に持続しながらも、ちょくちょくと要点で気がつくことが望ましい。明鏡止水という、水面に水が滴ると、波が円を描いて広がっていく。雨の水滴が水溜りにポツポツと溜まるような感じだ。ところが、雨でも長く続いたり思わぬ五月雨にあうと、一人では気分が治らないときもある。そういう時は、相手に教えを請うようにしている。そこで気になるのが、相手によっては受け入れて欲しいという納得感を求められることがある。声が小さいという意見を聞くことがある。多くの場合は、誰でも言いたいことがその場で言えない。場を設けて、相手や仕事仲間に伝えるというだけでも立場や役割や重み付けがあることを踏まえるとある程度、言葉に一回りくらいの大きさが欲しいということもある。普段の生活で、相手に聞こえるというより、相手をないがしろにしていませんという前提を積み重ねたいというニーズがある。
漫画やドラマでは、ヒーローがドラマチックに人生の縮図を描くものの、実際の職場では決断を伴ったり、担当者が望まない状況でもパフォーマンスを発揮するという必要があるとしたら、準備に重点が置かれる。漫画やドラマにしても、当時年齢が少年だったとしても、巻数を重ねるごとに中学生が高校生に、そして社会人になり、なりたい自分に慣れなかったとしても、確実に大人の階段を登っていて、そこに順応していく必要がある。
すると社会に参加する前に思い思いに考えたことが、誰にとっても夢や目標になっていく。僕は漫画は初めは読めても、それを描くことができなかった。しかしながらみんなはどのようなものを見たり聞いたりすると面白いかを観察しているうちに、自分でも楽しみが見つけられるようになった。僕はあまり人に褒められたことがなかった。それでも、相手の目を見ているうちに心が安定してきた。忘れ物をして焦っていたときも、原点に帰ることを考えると。行動としては相手の要望に沿った形になるものの、後から説明する段階では、落ち着きを取り戻している。誰にとっても急ぐ時と、待つ時のバランスがポイントになる。急ぐ時にもたついて、待つときにどこかで急かしてしまう。もしこれが波に乗れれば、なりたい自分に慣れて、安心を自らで直すことができそうだ。
社会がというよりは、もともとそこはまだらなもので、均一ではないのかもしれない。全くリスクがない状態というのは理想的な状態で、それを目標にすることで関わる人たちが前向きになれたり、それぞれの良さを伸ばせることを考えようと思った。
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情報と生活の接点

帰り道には、畑違いの仕事をしながらもなるべく伝わりやすいデータを扱いたいという絵空事を思い浮かべた。
ICカードをかざすと、ゲートは通過したものの、普段なら残高が表示されるはずが、画面が出てこない。駅の改札は無人ホームだった。
誰かに頼らないで、自分で解決できる術はないだろうか、とりあえず、PASMOのチャージを行う動作を自動改札で行なって、残高を確認する。
すると、アジア系で見た目は日本人と変わらないけれど、こちらを見て改札を出ずにスタッフを呼んでいる声が聞こえる。
「please tell staff」
僕はスタッフではなく、社会人経験も乏しいが、なんとか無人ホームのインターホンのボタンを押すようにジェスチャーで示した。今朝がた無人ホームから勘違いの問い合わせをしたものの、駅員が出ることが経験になったのでそこまで強調しなくてもほどほどの声が出せた。ところどころ日本語になってしまったので、ネイティブで英語を話すことが難しい。それでもアジア人と会話するときは、言葉が元々は似通っているはずなのに、無個性な英語で伝達することに多少の疑問は感じる。
それでもその時だけでなんとか相手の役に立てたという実感が持てた。
切符よりICカードのほうが、乗車賃が節約できる。
それでもJRから私鉄や都営線に乗り換えると交通費がダブってしまう。
朝は一駅歩こうとした。帰りの電車では新橋から総武線で乗り換えがなくて電車が満員になっても乗りやすいと思ったからだ。
ところが先日の夕方と、今朝方では、運行ダイヤが異なっていた。新橋までいくはずが東京駅で止まっていた。Yahoo路線を検索すると、隣の新日本橋駅で乗り換えができるという。慌てて路線をキャンセルしようとすると駅が無人ホームだった。インターホンを押すと、この路線で十分に行けると案内された。程なくして電光掲示板の案内が目的通りになり、なんとか無事に着くことができた。総武線の新橋駅は案内板が少なく、今どこにいるかという情報が初めての場合では分かりにくい。情報セキュリティというと、漏洩しないことが主にはあげられるが、事故のリスクを少なくするために仕組みを改善する提案を考えることも有益だと思う。それでも普段の業務の空いた時間に行うことが多いので、時間が足りなくなってしまう。なるべくは効率化したいけれど、エクセルの表が何かのデータベースにも似ていることがあって、基本設定の部分に余分な手間をかけてしまった。
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