思いやりの側面

良く察することができる人がいるとしても、今回はすこししんどそうだった。僕は相手には元気でいてほしいと思う。つられて緊張したり畏まったりしてしまう。ポケットに入れるという行為も、普通ではなんてことはないけれど、それはシェアされないということを示唆してしまう。そのようなつもりはないと愛想よく接する必要がある。そういうときに素っ気ない態度をとってしまうと相手にいらぬ誤解を与えてしまう。僕は遠慮するときも、これが僕にっは十分なので結構ですということをもし親に言ったとしても、善意なのか押し切られてしまう。あるいはある列にもう一人いて、その人に気が付いてほしいということを暗に黙っておいて、あえて聞こえやすいように声をかけて、周りを見ないで愛想良くすると、偽善のように思われるという応対もあった。だれでも少なからず一生懸命で、毎日が緊張と義務感の中で暮らしている。僕のまわりにはみなだれも賢くよく気が回るが、新しいことがなく、だれもがそれを続けようと思わない。学校の部活動はポジティブに続けたいということを話してくれる人はほとんどおらず、大切なことは我慢の中にあった。別にプログラムを書くこともモノづくりをすることも、たまには想定外の状態になることも、ケアレスミスをすることも含めて、僕には得難い経験だと思う。

社会人になると、ギャンブルや作法が妙な存在感がある、だれもが完璧にはできないけれど、それをやりきらずにはいられない、それをすることで精神的な修行や自分と向き合えるようにも思える。そこには誰が優れているとか劣っているというムラががなく、ちょっとした癖や姿勢がその場の空気と連動して、気持ちがまとまっていく、そこではいくら言葉にしても意識のほうが素早く確実になっている。これが済めば比較的落ち着くと思うと変に期待して、上手くいくものもそうでなくなってしまう、そのためにある程度そういった膠着状態も有意義に過ごそうと考えるようになった。

自分はどちらかというといじめられっ子で、リーダー格には強く出られないが、ちょっとぐらい悪口を言われても傷つかない、あるていどそうった率直な意見があってもいいとも思う。とはいえ、こちらの要望は通らないが、相手の要望は一方的という状態になると、勝ちにはこだわれないが、それを受け流さないと話が進まない。誰しも目的や行動方針があるわけではないが、思っていることと逆のことをほのめかしたりなど無意識に働く掛けられると、ガードしきれずにマインドコントロールされて考えることだけでなく、息苦しくなることもある。僕が過ごしている限られた世間に明確なルールや、価値観があるわけではなかったが、ちょっとしたことが妙に気になってしまうことがある。とはいえ僕は客観的に意識ではなっているが、歩いているときはおそらく肩は利き腕のほうに微妙に傾いているし、姿勢もあまりいい方ではない、それでも平明であろうと心掛けてはいる。それを声高に主張してもあいての事情にそぐわなければ伝わらない。とあるメディアでは自慢は相手の気分を害するのであまり建設的でないが、編集者の間で自己犠牲を美化する新興宗教が存在感をもっている。日本は村社会ではあるけれど、多神教で一様ではないし、周りの人にもある程度の現実感覚は持ち合わせているようにも思われた。僕がそれが理不尽だといってもそれはわがままにも見える。

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