シュミレーションゲームの具象

Civiliization2はドットグラフィックのシュミレーションゲームでは進行度や一覧性がよく、囲碁や将棋のようではあるけれど、アイコンによって具体性がある。とはいえ、僕自身それがシュミレーションという性質上、フィクションの世界で、誇張されている部分も少なからずあることを踏まえて、海外のゲームが、ファミコンやプレイステーションのゲームと同じようにマウス一つで、ボードゲームができる。地図には役割や資源によって分類されているが、どちらかというと地図や等高線のようで、まるで駅前の案内図を説明するようで分かりやすい。また、具体的な地名や場所で相手を案内するときは、その時点で拡張現実のようなイメージが湧いている。WindowsがXPから7、そして10にアップデートされると、従来のcivilization2はvirtualBoxのwindows7のエミュレーターで動いた、civFanaticという海外のファンサイトにCD-ROMのイメージファイルがダウンロードできる。ブラウザゲームのfreecivというゲームもあるが、ゲームの進行や奥行きは似てはいるけれど、CD-ROMのcivilization2のほうがコンパクトに収まっている。ブラウザのスペックは携帯機器のPDAとは比較にならないほど高性能になっている。それでいて動きがもっさりするのは、バランスやコンセプトによるとことがいくらかありそうだ。将棋やインドや中国を経て日本に伝来したが、そのコンセプトは陣営で戦いをするものだ、とくに将棋は苛烈で、勝敗が決まるまで行われる。実際には、補給が尽きたり、士気が維持できなくなった段階で、興和なり交渉することの方が建設的な発想といえる。とはいえ将棋は抽象化されているのでスポーツともゲームとも言えないジャンルになっている。しかしながら、将棋から初心者がその醍醐味をくみ取ることは難しく、直観的でないことが多い。例えばスマートフォンには機能がたくさんあるが、極端には説明書を読まなくても、感覚的に使い方を理解してくれる。ゲームにはドットグラフィックでも拡張現実でも、将棋や囲碁にないような、補助的な要素を補う。たとえば野球では、ピッチャーはほぼ通しでボールを投げつつけ、守備も攻撃もする。チームは11人いるが、マウンドの一部を守っていたりと参加するチームにボールが均等に回ってこない、それに比べるとサッカーやバスケットボール、卓球は比較的スキルや経験値には野球よりばらつきがあり、その上、運と言う不確定要素が付いて回るが、チャンスは均等化される。将棋とシュミレーションゲームにもそのような敷居の低さが魅力だと思っている。子供頃のファミコンのソフトのゲームコーナーでは、任天堂のゲームが人気があったが、ヨッシーアイランドや星のカービィは、ロックマンに比べると、落とし穴に落ちてもしばらくすると立ち直り、プレイヤーが七転び八置きするドラマが垣間見えて、なかなか順番が回ってこないということもあったが、ひとたび順番になると比較的ながく冒険ができるので、ゲームバランスについて考えるいい機会になった。

Civlization4は、2に比べると、ドットグラフィックは3Dになり、地形もより立体的になり奥行きもある。ニコニコ動画の実況では、UIがシームレスで分かりやすく、自動車教習所の高速道路シュミレーターのような未来性があった。しかしながらWindows7でも10でもレジストリかなにかが引っかかって、インストールはできても動作しなくなっている。そのゲームエンジンを継承して、アメリカ大陸の独立をテーマにしたcivlization 4 colonizationはCD-ROMをセットにすると、互換モードで動作して、音もクリアになっている。パソコンの3Dゲームは、僕はMayaやUnityは経験がないが、windowsXPである種の到達点がある。スカルピー造形という彫刻に近いようなレンダリングにwindowsXPの紙芝居のようなファイルやブラウザが画材のように調和していたのだと想像される。

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バージョンアップと変わらないもの

OSバージョンがひとつ前のパソコンでも、動くプログラムもある。
キーボードで文章を書いたり、インターネットを開いたりと難しいことをしなければリサイクルになる。最新の機種に比べるとどのような一長一短があるだろうか。漫画は紙の書籍をPDF化すれば、電子書籍として見ることができる。
ゲームはwindowsのOSのバージョンによって、ハードウェアの環境が決まってくる。windows10はメモリが8Gにあれば尚よく、2GBでも十分動作する。
windows95の時代では、大きなブラウン管がついたデスクトップで容量も256MBと現在の1/10くらいしかなかった。
それでも、基本的なプログラムの様式が現代でも通用するようになっている。
ネットワークは元の電話線から光ケーブルが普及するようになって、
通信で、音声だけでなく画像やテキストを送ることができるようになった。
それでも、多くの人が使えばそれだけ混み合って、うまく繋がらないこともある。繋がらなくなってくると、確かなものは何だったのだろうと自分を見つめ直す機会が増える。wifiは1980年代に、デジタル機器を相互接続する無線として実用化されたものの、普及したのは20年〜30年経った現代になる。今でもwifiではセキュリティが有線に比べると変化している。
wifiが東京では混線することがある、そうした時にせめて「あ」とだけでも入力して疎通を確認したい時もある。
wifiは壁をすり抜けると電波が弱くなる性質がある。逆に、街の通りのwifiスポットでは遮るものがないので、移動中に拾ってしまうことがある。そうなってくると電波に頼らず、自分の記憶で覚えていることが頼りになることもある。マスメディアによると、いっそ電話ボックスを復刻させてはという構想もあるようだ。電話があるときは、ネットワークに申請して箱の中でメッセージを送るという。セキュリティにかかるコストも一定になる。
大型コンピューターはデスクトップパソコンに小型化した。そしてノートパソコンとして持ち運べるようになった。ノートパソコンは演算能力が、初期のコンピューターより多くのことができるけれど、どのような用途で使えばいいかが定まっていない。僕はカフェでノートパソコンを開いてもすることが思いつかない。もし少し腰を落ち着ければどこでも文章がかけるなら、それに越したことはないかもしれない。
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