学びの場の運営について考える

あまり、人が他人のことを言うことは、興味が湧かない。たとえ能力や才能があったとしても、生き馬の目を抜いたり、鬼の首を取ったようなと言う手柄を誇りたくない。僕には能力がないことを自覚している。
あえて背伸びしたいことがあるとしたら、
・価値観を磨く
・実学を身につけて、伝える
・次の世代に役立つエッセンスを突き詰める
いっそバーチャルだと思えばいいんだ。僕は、日常では生活のために利己的になったりするけれど、シミュレーションゲームでなら自分ではプラスにならなくてもより良い結果を出すために敢えてタイプではないやり方も採用するでしょう。実は、それが本当の現実だとしたら?どこまでが本当で、どこからが嘘なのかわからない感じだ。それに人をどうこうするのが苦手て、目を合わせてどっちが優れているかを意識するだけで相手を傷つけることもあるかもしれない。自分では、そう言うつもりではなくても無意識に相手を不快にさせていることもあるかもしれない。管理することに意味はあるのだろうか、意味など一人では作り出せない、集団の中でそこにしかない意味が生じて、そこで如何に貢献するかで身の振り方も変わってくる。
権力に例えると、与党と野党みたいなもの。日本では与党も野党もあまり区別がつかない。
大まかには江戸時代から土佐藩の中立で薩摩藩と長州藩が同盟して、明治維新が起こった枠組みが、戦後も続いている。
その中でも、小池百合子都知事の都民ファーストの会がすんなり通ったことが、小気味よかった。
元々人脈づくりは仕事の上であったかもしれないが、思っても見ないマニュフェストを掲げて誰も行わなかったことに挑戦することが、むしろ僕たちを安心させた。現代になって公と言う概念が、多様化している。
社会人になると友達を選べなくなってきた。誰でも友達でなく他人と言われると比較的落ち込むので、可能な限り親切にすることにしている。一方では、良く思われたい心配が濫用されることで、目的を見失うこともある。
夏目漱石の草枕の冒頭から、
智ちに働けば角かどが立つ。情じょうに棹さおさせば流される。意地を通とおせば窮屈きゅうくつだ。
とかくに人の世は住みにくい。

それでも、あえて人と同じことがしてこなかったことから何かをして見たい。一人で引きこもっているはずが、コミケの展示場に現れたり、街角のオフ会に参加したりするのは?そこでどんなことが良くて、またどんなことが良くないか。
個人的には、二人で話しているときは、そこそこ対話になるのに、三人以上になると、場を意識した振る舞いになって、それで負い目に感じることがある。ただ意識したままでは居ても立っても居られず、誰も傷つかない理想に逃げる。相手にとってみれば、ずっと人の話ばかり聞くのが苦痛かもしれない。それで、僕に興味を抱かなくなって、そこまで相手を意識することはないけれど、それは閉鎖的と受け取られ兼ねない、相手にどれだけ合わせられるかで成果も決まってくることが多い。ただなかなか子供の時と異なり、社会人になると協力者ができにくい。損得を考える訳でもないのに、どこか合わない。相手が嘘を言っているかもしれないし、自分にも用意や予測がつかないかもしれない。子供の放課後は遊ぶ、大人は斟酌し嗜める。子供から大人に変わる時と、逆に大人が子供に戻る時がそれぞれあれば、地域の識字率だけでなく、教育の型できて、コミュニティあたりの学費もリーズナブルにできそうだ。ただ最近では6大学もマーチ大学も埋もれるばかりで、できるなら国立の最高学府を目指すことが唯一の社会貢献だという考え方が強い。
ただその文章に現れない、雰囲気だったり、佇まいが第一印象を決めることもある。その第一印象は、どうすることもできないし、それだけに相手を知る手掛かりになりやすい。どう言う時に学びを得たいと思う?
仕事で然るべき成果を出しにくくなった時が社会的には多い。都会は移住者でできているけれど、やはり大切になるのはその人となりを作る色々なもので、
そうすると元々ゆかりのある強みが欲しい。パソコンで何かを管理することに後ろめたさを感じる。元々は手書きでは、コピーすると読めなくなるので、ワープロを使ったことが始まり、それが僕の伝達手段になるとは思わなかった。
最近では、日本で家も電話も普及してしまったので、メンテナンスがあるくらいで、通信分野に伸び代があり、そこでアルバイトや就職をこなした。システムというよりは、社会の仕組みに囲い込まれている。その中でどのように人間性を繋いでゆくか。
少子化の影響を受けて、住宅地は各地で空き家になっている、公民館もがらんどうの箱物になっていることが見られる。その中で、場を大切にすることが実は不透明になっている。フランスで極右派のルペン氏が選挙に出馬することになると、せめて彼女より中立的な候補、または、選挙に参加できる社会階層が限定されているのなら、如何に集まった人たちが寄り集まってできた場に日常を再定義するかを、話し合う場がニースの街角のカフェで行われた。日本では路上でキスしたりしないし、そのまま取り入れると言う訳にもいかなさそうだけれど。
文化的を作り出す学問があれば、そこに編集より具体的で、システム工学のように人工的でない何かを自由に取引する独立を実現したい。

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