アカウントと意思の疎通

YouTubeには動画をアップロードしたアカウントにメッセージを送る手段がないため、コメントを書くしかなかった。同じ動画共有サービスでもBliBli動画には連絡機能が付いている。フレームを組み立てるほかに、ホームセンターから金具を買い足したりして手作りの部分もある、キャタピラークローラーが受け入れられず、閲覧数が全く伸びないのは残念ではある。YouTubeでは非公開している動画のBGMにiTunesの曲名を入れていると著作権違反になっていた。YouTubeではGoogleアカウントやアナライティックスを通じてアクセス数を分析したり、アップロードした動画のバックアップを取ることができるが、どういうわけかメッセージの疎通が上手くいかないところがあった。しかしながら、せっかく作った仕組みだったり、アイデアを自慢というわけではないが、なんらかの形で残していく必要がある。別にクリエイターを志望しているわけでもなく、クリエイターというとお笑い芸人がそれに当てはまる、既存の価値観を否定して、新たに自我を定義する。それを言ってしまうとだれもがクリエイターということになるし、あまりそういった感覚は分からなかった。モノづくりではモノが溢れているかとマスクが足りなかったり、十分に行き渡っていなかったりとDIYのニーズはある。とはいえ、ニュースでやっていたように給付されたマスクが小さいために糸とガーゼをほどいて、大きめに作り直すというのはあまり気が進まなかった。

自宅勤務になると、マスクの配達状況も気になるためにどこの誰からも分からずに掛かってくる非通知の電話も受けざるを得ず、いちど電話に出てしまうと、断りにくくなるという状況があった。このタイミングでなくてもとおもったが、引っ越し前の住宅に届いていたクレジットカードの伝票が次の入居者に開封されたという、連絡を受ける。引っ越し後のアカウントの住所の設定はしていたが、クレジットカードには反映されていなかったという。その電話で住所を変えることができたので、手続きはできたけれど、そのタイミングでなくてもという違和感は残った。Amazonでなくロボットパーツで注文をしていた時に、住所をDHLで配送するためにローマ字の表記にするというメールがあり、それ以降は戸籍について問い合わせるような用件が重なった。

勧誘の電話でも、もしそれを受けてしまうと、条件が良くても今の状況を変える必要ある、独身ではあるが、生活を守っていければと考えている。それをなぜ見ず知らずの人に窮状を訴えなければならないのかという理不尽さがある。家に帰って寝るだけの生活ではあるが、自分が正しくあらねばならないという価値観と折り合いを付けながら過ごしていく必要がある。某放送作家の嘘を含んだ大きな主語で語られるときは、身の回りのことに気を付けた方がいいという。こちらから言い返しても得るものがなく、別に自己主張したいわけでもない。なるべくはヤクザのような性質から逃げることだけを考えている。BliBli動画にて、洗濯機の上で泣く子供がいるという動画もあったが、コンテンツとしては面白いけれど、生活のために洗濯機を壊されても困る。動画としては面白いけれど、現実にあると困るという類の話題にどう応じたらいいかと悩む。初めての動画チャンネルのフォロワーだったこともあってホッとした感覚もある。

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誘導と向き合う

数にこだわっていたわけではなかった。一種の目安としてと言うところがあった。よくスポーツを見ていると、これっていいところまで引き分けにして最後に一点取ると効率良く勝てる。と言ってしまえば極論だろう。そこまで勝つことに拘れない。サッカーの場合、みんなで一つのボールを回してそれで協力して取っていて、まるで原住民の漁のような趣がある。もし、大きな獲物を捉えればそれだけ集落は貯蓄が増える。原始的には勇者は、ともすれば特定の役割を持たない、つかみどころのない者かもしれないが、そう言った儀礼的な側面もあったのかもしない。でもそれになりたいと言う人がたくさんいれば恐らくは競争になり、集落や部族トライブの誇りを守ると言うより、特定のグループの人物を陥れる方法を身につけようとすると言うリスクもある。自分にもそう言った部分が全くないかといえば嘘になるかもしれない。それでも世の中が善と悪、苦労と安楽だけで分けられない、割り切れないとしてもなんとも後味が良くない。

陶芸は土からできる原初的な文化というよりは、生活の手段だった。それでも今ではそう言った活動ができない、窯を作って火を起こすのも燃費が計り知れない。それでも土をセラミックに加工には熱と化学変化が必要ということだけは伝わっている。かつては多くのIT担当者がろくろを捏ねるようなしぐさをして、それでアイデアの形を伝えたという。昭和年代のように空き地がなく、ベーゴマを鉛で鍛造するということも、今ではできず、ベーゴマの形のプラモデルをカスタマイズするという別の体験に置き換えたという活動になっている。もし大学があったとして、その先に別の世界が拓けていれば、学ぶことに客観的になれた、自分を見つめ直すこともより容易だったかもしれない。

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可愛くない癒し方

個人的には業務や遊びにテコ入れをする目的で、性的な嫌がらせをするべきでないと考える。適度に高望みをせず、組めるところで組んで、その余暇で創造的な活動をすれば良いというのは、武者小路実篤のエッセイに書いてあった。それにしても最近必要なものの中で特に新興宗教があがるのは、教科書通りの常識だけでなく、独りよがりの独善でもなく、お互いに腑に落ちるような方法で理性を取り戻す必要がある。悪意や不運は目に見えない、もしリスクがあるならそれをどうにか緩和するだけでも、比較的状況の改善ができる事もある。編集者の仕事は関係者の気持ちのマネジメントなのではと思うところがある。携わる人をその気にさせるために敢えて予防線を張ってノルマを課したり、伝える順番を入れ替えたりする。しかしながら多くの場合ではそのものの役割を変えることができない。
それでも大人は表立って争うことは仮にできたとしても、あまりそれは現実的でない、そこで形を変えて不満が現れる。徒党を組んで会費を集めて札束を数えたり、とかく数字に飢えている。中には札束や住所録でハリセンを作って人をつつこうとするような遊びもある。そういったイタズラも自分が有利な立場で相手を圧倒できるときは気分がいいけれど、その逆になるとまるで世界観が同じものを見ているのに逆立ちしたように様変わりする。イジメと似たようなものかというと、イジメはある種のパワーバランスの差からできるとことがある。イジメる方も、イジメられる方も何かに依存していて、本当はやりたいことが何らかの事情でできないというもどかしさを抱えている状態に近いのかもしれない。何が言いたいかというと、ちょっとした質問をひとつ試してみる。あなたは誰かにやり込められたことはありますかと。
全くないとか、常識的にそれを防止しますと建前を述べたとしても、なんとも事実と異なるという場合は当たらずとも遠からずと言ったところもしばしばある。どういうわけか、昨今ではインターネットでGoogleやFacebookといった情報を扱うサービスがあるのに、その学校やグループの事情は検索しても、コメントを送っても表面的なことしかわからないというのが実情かもしれない。
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ありそうでなかった物の見方

ここのところ状況が安定しない、ただランダムでそうなれば仕方がないところがあるが、誰もがいつも読むもの見るものがなく、様子や力関係を観察している。それでもどうにも良心だけの状態にならないことがあるという。それは一種の緊張疲れかもしれない、ミスやそれ以外の得るものについて常に何かをドキドキハラハラしていなければならないという状況はお互いにとってあまり生産的でないように思う。
かつて、恋愛がしたいと言っていたけれど、今までの延長線上には得るものがなく、勝負に出たいと考えたためだろう。それが既婚者でもそう言ったハラスメントの傾向がある。それとは別に、クリエイティビティを形にすることを、恋愛と出産に例えるというマスメディアに特有な現象がある。それでも、作品が売れないという、なぜ売れないかをクリエイター塾で議論するということも案として上がったという、それでも編集者同士の自費出版になるとそれ以上に共感性が薄くなってくる。
近所でもネズミ講があり、少々気分がブルーになった。それでもかつて、たこ焼き屋で話したことや、講義をメモしたことなどはいまだに覚えている。僕はその時は人前で話すことが慣れておらず、そのまま謙っておけば無難にことが治ると思っていた。隣の人もそれを支援してくれていた。ところが、ベイマックスの映画を見たときに、テンポが早くて全体のクオリティが高かったので、後でゆっくり見れば別の見方もできるかもしれないと思っていたが、彼は、ラストシーンで仮面をかぶった悪役と、人質に取られる出資者の構図がはまったようで、世の中はまずお金と立場だと譲らなかった。かといって、それでそれを真っ向から違うとも言えず、じゃあ僕なら損得を抜きにして、相手を説得できるようなというと脇が甘いのかいいところで捲られる。そうでなく、そもそも教授が人の悪口を言うシーンがアニメでも嫌悪感があった、容姿が多少よければなおさらその影が怖いと言う。それでも風船が駆動部分を優しく包むと言うコンセプトはありそうでなかったもので、マンホールの蓋にもそのデザインの一端がある。それにしても色々と既視感があるグラフィックが高速で流れるので、どうしても苦手な部分やトラウマになっている部分が傷口に塩を塗ったように印象に残る。それでももしその傷がなかった、または塞がっていたならばそれは別段無害で中立的だという見方もできる。
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映画や漫画の場面の相関

ディズニー映画のTRON Legacyでクルーが、銀色のリンゴに映っていた自分の姿にコンプレックスを抱くシーンが印象的ではあったけれど、それを見ただけであたかも敵と味方のように区分けされ、憂鬱な気分になってきた。エンターテイメントの敵と味方は、演技の上でそうなって経緯もあり、それをそのまま現実に当てはめようとするのは、なんだか誰もが注目を集めていたいと思っているように見える。あるとき、知人のiPhoneの液晶画面が割れていた、僕もうっかりポケットから落としたことがあったけれどよほどの衝撃を与えないとそういったヒビは入らないようにも思われた。むしろそれをある意味では誇らしく思っているような節があった。僕もそれをやや怖がってしまって、会話の端々から出遅れることにはなった。しかしながら、会話で向かい風を受けても、踏ん切りがつかないところまで担がれてしまうので、それはそれで自分に対して素直になれないところがある。
メールは苦手な相手や、人の気配を感じていないほど何かに集中していると、返信が遅れることがある。しかしながら、それを羨ましく思うことにはあたらない。羨ましく思うと、その人の長所を見ようとせず、貶めることで安心するという心理がはたらくこともある。最近はあまり人に恨まれないようにしようと思うけれど、その道のプロフェッショナルになると、独自の価値観やルールを敷いて、そこに従わない人を排除しようとする仕来りがある。僕は別に何かにこだわることがなかったし、特に系譜を引き継いでいるわけでもないので、そういった守りに入ってもあまりいいことがない。
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ドラマにある演出とその場のニーズ

ドラマでは人が死なないと面白くないというけれど、最近ではあまりドラマを見ていない。かつてwebデザイナーだった知人がブレイキグバットを見ているとして、紹介をしてくれたけれど、どんなドラマかを聞いてみると、おじさんがヒロポンと似ている麻薬を作っている架空のお話だといっていた。その時はそれを聞いてもチンプンカンプンで、その後でさらにnetflixがNHKや民放にはないドラマが見られるとして、ブレイキングバットを見ることになった。すると元素記号の周期表が出てきたり、カメラワークやストーリー、専門用語の背景にあるエピソードなどが明らかになり、日本ではそういった架空の話を語れるような環境があまりないのかもしれない。あり合わせの材料でボルタ電池を作ってエンストした車を起動させるなど、日常で使われている仕組みを解明するようなところがある。その一方ではハエを捕まえるのに、とても神経質になりながらもカメラアングルがぐるぐる回るという、日常の裏をかいたようなものもあった。架空の話とはいえ、相手をその気にされる目的で札束をチラつかせるのは、ある意味ではパワハラのようにも思われる。トランプ大統領が移民対策で壁を作ろうしているメキシコ国境付近が舞台になっており、時事や国際情勢などを調べるきっかけにもなる。純粋にドラマを楽しんだり、テレビでニュースやアニメ以外で、続きが見たくなるようなシリーズを見る機会があまりない。
年配の人によると生き甲斐とは、その日その日を懸命に生きることだという。ある程度、誰かと意見を戦わせないと張り合いがないとする、屋台でもテキ屋というその土地の青年団を取り仕切る親分が、それを切り盛りしていたという、腕っ節がよく、頭も回る、そして度胸も座っているというリーダー像が求められた。それも、力で相手をねじ伏せているようにも見えて、あまり誰かに話したくはなかった。後味もあまり良くはない。それでも手先が器用な人が、機嫌を損ねると、色々とややこしくなることが経験があり、ただ張り合っていてもなかなか生きづらいものを感じる。ある程度長期的な視野で物事を見て見たい。雷がなるとへそを隠すということわざがあるけれど、何か都合がつかない偶然が起こると、10回中7回くらいは、道場で世間話が繰り広げられて、暴れている。インターネットがなかったとしても、恐らくは町の掲示板や通信手段を介して、間に合わせるようにメッセージが飛び交う。
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社会人が目指すもの

誰かにサービスをする事を生業にする人の最も堅実な態度は犬のようになる事だという。そうすれば、仮に一時的に運や準備が至らなかったとしても、角が立たず、誰もが協力的になる。一般的にはそうだと思うし、僕自身誰かを追い抜いて立場を良くしようとすればそれなりにリスクがあることはある程度想像がつく。しかし大人しいのは一面的な姿で、別の部分ではパワハラやセクハラのチャンスを伺っていたりする。労働時間は長いけれど、慣れによって培われたその組織独自のノウハウに長けている。長時間労働で注意力も散漫にはなってきていた。そういった中で、朝夕の心遣いというものがふと気になった。
いった言わない、任せた任されたという意地の張り合いもいいけれど、おそらくは一過性の家族ごっこのようなものだ。実際のところ家族としても、できないなりに自立したほうがひいては家族のためになるようなこともある。良くある事が、あいつは間違っている。どうしてと聞き返すと、その人のいう事を聞いてくれず労ってもくれないからだという。当人のいう通りにして褒めることと正しいことはどのように一致するのかという問答が、暮れ行く時間帯に悲しく滲んで見えた。何かインセンティブな業務はないかと聞くと、予想通りというかないと答える、では然るべくことだけをこなしていれば済むかと聞くと、そうでもないと曖昧にする。その人の癖や利己心も含めてとにかく一緒にいて欲しいのだという。それはそれで仕方がないと思う以外に選択肢がなかった。せめてこちらの提案を聞いてはくれないだろうかと聞くと、ただちゃんとしていればいいとにべもない。であれば、そこにはちゃんとした過程があるかと思うけれど、ちゃんとしていないと事を直そうとする責任を試しているという。高齢者にとって段差のないバリアフリー空間は、建築学上の成果物で、それは段差や板が軋むような足がかり手がかりが多くある環境からそのニーズが生まれたという。それも組織の常識と、世間一般の常識が異なることを認識する事が必要になる。しかしながら、増多な項目は覚えきれず処理しきれない。もし他人の意のままに従う事が業務の成果を上げるのに近道だと考えるなら、どうして同時に何かを頑なに否定したり、裁こうとするのか。もしそれが勘違いだったらトラブルの元になる。無意識的なミスならともかく、意識的に都合をねじ曲げようとすればそれは相手と力比べをしたいということになる。
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付加価値と分布

人生に影響を与えるのは、たくさんのことではなくてちょっとしたことから起こることもある。珍しいものには付加価値がある。僕はゲームや普段ではあまりマイナーでなおかつ価値があるような領域にはなかなか至らない。人には競争がないわけではなく、ある程度の段階がある。ジブリの映画、風立ちぬでもピラミッドのある社会をどう思うかという問いがあった。そういったものはどうにもならないが、空を飛んでみたいという次郎は答えた。カプロー二はそこにしんどさを感じなかったように見えた。偏差値は、ある学校の教師がクラスで勉強ができそうな生徒に期待をしていたが、なかなか模試で結果が出せなかった時に考案された指標だという。どれだけ成果を出したかだけでなく、その成果に至る難易度を珍しさの度合いで立体的に図るものだった。ところが、学校のテストだけでなく、予備校が参入してくると偏差値は、賢さの度合いであるかのようなニュアンスを持ってくる。例えば、

1.クラスで平均点が60点でAさんは50点だった
2.クラスで平均点が30点でAさんは50点だった

という場合、2の方がAさんは相対的に頑張っているし、クラスのメンバーに比べると覚えている分野が多いという予測が立てられる。ただし、全体の分布図の中が大らかな山形になっているものは、出題そのものが重厚な作りをしている。逆に、頑張ったら、頑張っただけの成果がジワジワと上がってゆくが、なかなか、山の中腹で集団の塊になっているところから抜け出せない。その他大勢の中から、一気に抜きん出ることが難しい。この場合では、偏差値は点数とほぼ同じになる。また山なりにはならず、歪な形になっていることもある。ポイントさえ押さえれば、あるところからは点数が上がり、ポイントを逃してしまうと足切りに引っかかるというケース。こういった場面では、偏差値が平均点と同じようになる。グループに乗り遅れないように水準に達すれば数値は安定する。身近なバロメーターでは、痩せていたり、太っていた場合に、標準体型に戻りたいという場合が似ているかもしれない、グループ全体では、必ずしも誰もが標準体型ではない分布も有りうる。
また、第三の場合では、全体の平均が低い山になっている中で、それでも登り続ける場合で、その時だけ偏差値が点数に付加されて徐々に差が開いてゆく。僕は英語は苦手で、まともな問題の場合は、やや難易度の低い現代文に似ていたが、なかなかそれを理解することが難しかったけれど、偏差値の付加価値では英語が近いかもしれない。

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