まだらな心模様

話が噛み合わないというより、もともと嫌がらせをしたくてという人もいる。嫌がらせをするだけのスキルがあるので、それをどうだを言ってみたい。それもある程度物分かりが良く、世間知らずで、自分なりに公平だという価値観を持っているようなボンクラに、自分たちの挫折感を味合わせてやりたいという。僕は何かを間違えることはあっても、挫折したとは思わない。ちょっとつまづいたくらいで大げさな奴というくらいで。それでもまるで婦女子のような、お茶目なところもあるんだと、少し新鮮な気分ではある。

もし僕が筋トレなどのエクササイズをしていたとしても、それを見ている人が怖がってとか、負け犬の遠吠えをしたという風にツイートをするのは、なんだか、手段が目的化している気がする。別に重いものを持ったり、持久力を保つためにトレーニングをするなら、それが関係者に喜ばれるようにすればと思う。ある時、質問すると最近では苦労を前面に出すことがカッコいいというような風潮がある。少しでも相手が遊んでいると、それが鼻につくという。それはそれでストイックで良いことだと僕は思ったけれど、よくよく考えると苦労は負担を相手に押し付けるためのマスクのように使われている。そこまでマウンティングの題材にされてはと思うけれど、例えば会社でも一緒に協力したり、タスクをこなしたというより、誰それが抜けたということが、誰それと関係ない人の良心に訴えかける心理効果がある。そのようなテクニックを持っていても、その人が表に立つことができない場合もある。

誰かの持ち物が羨ましいと思ったことが人なら誰でもある。かつて中学校の学生のグループが、街で手持ち無沙汰にしていると、リーダー格が、勉強は苦手だし暇も自分の存在意義を磨くことがなさそうなので、アルバイトをすると言っていた。そのときから居場所を確保するためのスキルがグループの中で芽生えていたのかもしれない。僕は別にそうでもなかった。仕事は社会のためにすることで、それが何かに貢献できればと思っていた。一方で、漁師町では牡蠣の殻を剥くのが手速いなどの専門的なスキルが巷に存在する。もし食料を確保するという目的のためのそのような作法を身につけなくても、何かで代替できるかということと、職人的なスキルを否定することはまた要件が異なっている。実のところ、誰でも階級を作ってその中でコミュニケーションを取ることはある程度習熟するが、本来自分が何をしたいかということが分かりにくくなり、それでストレスも溜まる。経営者にしても信頼できる部下が自分のやりたいことができていることは稀で、望まぬものを与え、望むものを取り上げるというバランスから心理的に相手を載せている場合もある。利害関係を抜きにしても社会人になってからは友達ができにくいというところはあるのかもしれない。一方で子供の頃は、なるべくイジメられないように自分にないものを懐柔しようとしていたという側面もあり、友情も純粋とは限らなかったというところもある。社会的には優しいだけでは信用できず、悩みも解決しないとあるけれど、それで相手に親切にしないことが標準化されると困ったことなる。よくよく会話を聞いていると、誰でも何かを判断して裁こうとしている。もし否定された側がいれば悔しいかと思えば、別の相手にそれを行う。それでもそこまで何かを利用したり、否定しなければ日々やっていられないようなことがあるのだろうかとも思われる。もしそこで標準語ができたら、おそらくお互い何も言わないのかもしれない。

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