アイデアと交流

昨日雨が降ったためか、今日はそこまで気温が上がらなかった。とはいえ外を歩いていると汗が噴き出してくる。サンダルも新しくなり歩きやすくなっている。以前のサンダルは1年くらいでボロボロになってしまった。いろんなところを歩いてきた。同じサンダルを繰り返し履いていたために靴底がすり減っていた。靴底の接着剤が剥がれるまでは、多少表面がささくれ立っていてもまだ使えると思っていたが、なにかにつまづくと靴底が剥がれていた。スニーカーに似ているフレームを持ったサンダルがあると便利というアドバイスのもとに引っ越してからしばらく履いていたが、確かに移動には手助けになっている。

DVDのメディアが経年劣化して割れやすくなっているので、USBメモリに換えることにする。部屋の湿度が高かったからか、DVD-ROMが脆くなっている。DVD-ROMは購入して1年くらいたっているが、材質が変化している。収納ケースにプラスチックが引っ掛かるのも耐久性を損なっていたかもしれない。ともかく記録媒体はなるべくデータを保存しやすく、また取り出しやすいメディアを考えている。大容量のメディアは家電量販店よりもamazonに品ぞろえがあるようだった。ともかく試して見ようと考えている。どのデータが入っているか、文房具屋で入手したタグのキーホルダーを付けて識別しようと考えている。

図書館から参考書をさらに延長して借りることにした。業務知識に必要な部分が2018年の時点までを扱っており、書店で購入した参考書は2017年で、およそ1年新しいものになる。ほかに借りている人はいないようで、スムーズに借りられた。書いてあることに沿って、自分の考えを作っていけたらと思う。書いていて他の応用できるような論理の組み立て方を学んで行きたい。なにかに応用できるかどうかは、論旨がどうかといとよりも、それをなにかに役立てる意思があって、そのために目標設定をしているかどうかに掛かってくるとも考えている。

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労らない人

時間に追われているのが、精神的な要因がある。まずは、30代の世代で苦労していたという放送作家の人で、なかなか人を操るのが上手くて感心する。ところがそういった人たちに気に入られようとすると、誰かと協力する訳でもなくなぜか真っ当な方法を選ぶ。それも道徳的に正しいならともかく、自分の都合を相手に押し付ける。他人の不幸は蜜の味というけれど、他人が少し困ったりつまづいたりしているのが愉快であるようだ。それをどうこうしようとは思わない。放送作家にしても、書くネタがギャンブルが多く、それに懲りて禅寺に入るというステレオタイプのように思われている。実際の住職がどのようなものかは分からないけれど。

話を全部聞いていることが難しいことがある。ついつい相手に気を使って考え過ぎてしまう人のよさが僕にはある。間違い探しや記憶力を試すゲームを会話やコミュニケーションに含めることは、それが勝っていたり、上手くいっているときはいいけれど、例えば初めて赴いた先では、必ずしもそうとは限らない。居場所がない人にはしんどい。しかしながらコミュニケーションで優位に立っている側にも思うようにいかないところがあるようで、彼らにとってはしんどさが財産で、それが地位を固めてきたという。

呪いのようなメールがあり、それらの多くは文章を書いたり、できることを増やしたいというケースが多い。そこでとある放送作家の事例をとり入れたくなったのかもしれない。放送作家でもそれで成功できたという事例より、同業者同士の競争からどのように逃れるかというところで話題が集まっていた。直接的な暴力でなく、意図的なささやきやシラを切るように流れを引き寄せるようなテクニックが、ドラマや小説には多く、そういったものは普段の労働では得がたい刺激になる。とはいえかつてはマネジメントの教本と小説をミックスしたものを地方公共団体や民間企業にテキストとして配っており、それに自治体が神輿を担ぐように応じているケースもある。中にはエレベーターに手書きで張り紙をしたり、お金の話を持ちかけたりと、グループが健全に動くことと嫌がらせが表裏になっているものもある。もし他人をどうにかするとすれば、個人では難しく、何かの業務に携わっていると後ろ盾を得る。

僕は、自分の考えをSNSやtwitterで発信することは、あまり相手の為にならないと思っている。相手を気遣うからこそ、その柵が気になってしまう。それでも、今回はこちらのミスもあったけれど、相手に考える時間を与えない、選択肢を与えないという高圧的なコミュニケーションが、負担を受ける側だけでなく、与える側、いじめでいういじめっ子にもケアすべきことがあったのは、慰みになった。彼らにしても、勝っても負けても辛いという、あまり生産性のない集まりを続けざるを得なかった。生理的に相手が利益を得るのが好ましくないというのは僕も潜在的なものがあるかもしれない。とはいえ、人は本能や感情だけでなく、それを相手のためにどうにかしようという気持ちもある。

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思わぬアクシデントから思いついた工夫

休日に太陽電池用の電線に端子を当てはめていると、家庭用スイッチのネジと互換性がある丸型の端子にしようと思っていた。半田付けもゴムやプラスチックを溶かしているとなかなか半田がつかなくなることもある。それでもかなり上手くくっ付いた、ところがソーラーチャージコントローラに端子を接続すると何かの拍子で+極と−極が触れてワニ口クリップの導線が火花を出して、12Vの蓄電池に繋がる導線が燃え出した、また雨よけにかぶせていたビニールも焦げた、ハサミでビニールと端子がくっ付いてしまったところをハサミで取り外そうとすると、パチパチと火花が出る。なんとかして元の状態に戻すと、鰐口クリップのワイヤーが溶けてしまっていた、次の日になるまでにそのままにしているわけにもいかず、時間も8時前だったので、そのままホームセンターに向かうことにした。対策はソーラーチャージコントローラーから蓄電池に伸びる導線を太くして、また鰐口クリップと端子が-の端子と触れないようにプラスチックの箱で覆っておくという方法をとった。それだけでなく、キッチンのモーターにも一年くらい端子に何もつけていなかったが、チャック付きのビニール袋で+極と鰐口クリップを覆っておく。それにしても万が一の事が起きるという事がなんとも経験にはなった。今年は夏で33度くらいになる日が例年より早く、熱中症になりやすいという厳しい気候になっている、しかしながら太陽電池の電気は溜まりやすくなっている所は、梅雨や豪雨だった2週間前に比べると風向きが変わってきている。
それでも蓄電池にはダメージがなかったことは不幸中の幸と言えるかもしれない。防火用の袋に入れながら、+-の端子が外に出ているという形にすれば、リスクを防ぐ手立てになる。また蓄電池に溜まった電気を何かに活用できるかとバッテリーからニクロム線でお湯を温めてみることにした。しかしんがら12Vで電熱線を温めている事例は理科のジュール熱の実験くらいしか見つからなかった、100Wのニクロム線を2つに分けて、熱効率を上げてみる。ガラスの容器に水を入れて、電熱線を繋げてみる、そこで+側の端子には整流ダイオードをつけて、何かのはずみで混線してもケーブルや回路が破損しないようにする。整流ダイオードはモーターやバッテリーなどの出力の大きい機器につなげるときに故障防止になりうる。または電圧を一定に保つ三端子レギュレーターもあるに越したことはない。
横スクロールアクションのスマホゲームで、仮にどのような武器があれば、有力かというところをイメージすると、打撃や飛び道具を強くするというより、小型の自立したデバイスが格上の敵に挑戦するためには必要になるような気がしていた。まるでタツノコプロのミニメカのような、またはラジコンカーのような、かつてルンバを持ったのも、別に効率よく掃除する従者というよりは、ある程度好調不調の変化がある対等の友人のようなという思想を抱いたことがあった。とはいえガンダムでいうニュータイプのように脳波で遠くの人とテレパシーを送ったりということも、ギャンブルの相手の手癖を見抜いたり、弱みを握って意のままに操るというテクニックでもない。そういっても海外のスマホゲームで敵も回復措置があり、攻略サイトで回復中に後ろから攻撃すると膠着状態が解消されるということがわかってやむなくそうせざるを得なかった。そうなるとテレパシーでもセンスでもなく、誰でも付けいる隙のようなものがあってそれを未然に防ぐことが必要になるということもあるのかもしれない。
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自主性を養うチャンス

ゲームでは、知人の家で観戦していることが多かった。ロックマンやドラクエ3などは、知人の家に遊びに行ってそれを見ていた。アニメでは床屋や駄菓子屋に少年ジャンプがあり、それを回し読みしていた。個人的な好みでは月刊コミックボンボンを読んでいたけれど、世間的にはコロコロコミックで、友情や努力が試される場としては少年ジャンプがあった。マガジンやサンデーになると少し大人っぽく、グラビアなどもあったけれど、あまり恋愛をしたこともなかった。Pixivでは成人向けというより、少女らしい初々しさを少し出すようにする方が魅力的だという、少子化で成熟した社会、社交辞令を交えながら女性らしさを慈しむような状態は正直あまりなじまない、それはそれとしても、コミックマーケットなどでは、原画もさることながら、それをいかに魅力的にピックアップするかということも原画の魅力を高めることがあるという。椅子取りゲームのような構造になっているのが、社会を窮屈にしているような気もする。
スガシカオの歌に、声優やアニメーターや、タレントになる夢を持ちながら、実際には会社員になって、少人数のチームでできるアシストを考えるというフレーズがある。社会人になるまでは、むしろそういった学生生活の先に何があるかをあまり想像できなかった。小説ではロビンソンクルーソーに触発されて、ひとりでできることを増やしていくということが性に合っていた。言葉遣いもひと昔前に比べるとおしなべて穏やかになっていた。その穏やかさも誰に頼まれた訳でもなく、ひとりでに良かれと思っていた。
かつては駄菓子屋の倉庫にSNKのゲームセンターがあった、ディズニー映画のトロンレガシーでもやや大人向けのジャンルになると、中古のバイクで、場末のゲームセンターに訪れる青年がいるというシーンも印象深い。自分でゲームを買ってみようと思ったのはコンビニで、FF6のデモプレイがサイネージで流れていたところで、どれか暇つぶしになるかと思ったものが、センスでも知識でもないような伝え方の手段を段階的に教えてくれた。趣味の世界では、ホジージャパンに乗っていたピンナップが印象深い、同人ゲームから有名になったという月姫のシエルの修道服の佇まいが、当時コミックマーケットなどに参加したことがなかったので、凛々しく見えた。あまり理想を追い求めることはなかった。そこからイメージを再構成して新古典主義の教科書をもとに、キャラクターを自分なりにあれこれ図や絵に描いてみる。初めはノートの端っこに手持ち無沙汰で描いたものがきっかけの一つだった。歴史小説を読んでいたのはゲームやアニメの背景をより詳しく知ろうと思っていると、一冊また一冊と読める本が増えていった。それでも自分でお金をある程度納得のいくことに使ってみたいと思ったこともあるけれど、本来趣味の世界では、お金をいかに技術やコツでカバーするかということに醍醐味があるのかもしれない、しかしながら、実力だけでなく、運も縁も必要だとも言われる。それでも自分に嘘をついたりして取り繕ってもあまり持続的にならない。結局のところは人気とグループでいかに有利なポジションになることがというけれど、それで持続的な積み重ねが保証される訳でもない。僕などは自分にあまり自信を持たず、我や意地を通すことにあまり乗り気ではない、文化のヒップホップはギャングのグループの抗争が双方にとって不毛な暴力沙汰を起こしたので、仲直りも兼ねてダンスのスキルを競うようになったという経緯がある。
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場と意思のゆらぎ

うまくいっても行かなくても疲れる。ダメージを避けることができない。臆病心も多少はあるが、そこでほどほどにしてくださいよと頼んでも、状況や形勢が不利だ。相手をより有利な状況にして僕は逃げるだけ。それにしても、噂はどれも鋭く、どのような状況でも必ずターゲットがいる。もし、自分に叶わない相手がいるならむしろ現実的になる。というケースは少ない。しかし、ミスやエラーをすれば叩かれるので、それが怖いこともは怖いけれど、それで状況が改善されることは限らない。具体的な対策になっていないからだ。しかしながらリーダーシップには、決められた方法でなく、感情に訴えるものが多い。最近は行く先々で脅されて気絶することが多くなった。立ったまま何もできないこともある。対策はというと脅されてもありのままの状況を話せることくらい。恥を基準に負担を掛け合うという、手法もある。これにハマると何もしていないのに競争相手がペースを乱して、転んだり手順を間違えたりする。そこんタイミング悪くペナルティがあると、なんとも言えない虚脱感がある。少なくとも相手に不利な発言は控えざるを得なくなる。すでに気絶しているので、どうにもならないけれど、そこまでして相手を打ち負かしたかったのか、それともある努力の基準を揃えたかったのかはこちらからはうかがい知れない。知っていても痛みがあり、知らなくても痛みがある。
何もかもがうまくいくとは思わないけれど、タイミングの重なり方が特殊だ、まるでこちらが答えてもある程度、気を使っている分、わだかまりができると思いたいようでもある。どのようにふるまっても疲れがあり、それを回避することができない。いつでも倒れてもいいような気持ちであるものの、できれば潰し合いにならず、支え合っていける準備があればと思う。お笑い芸人がフリとオチをネタにするというけれど、普段から話が誰かに寄りかかるという用事が多く、聞いていると不安になってくる。今週には、昼にメールが数件と、何かと用事が多い珍しい月だった。揚げ足取りを受けると、相手が引き下がるような譲歩を引き出せないとすると、こちらではやり過ごすしかなくなる。
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まっすぐな意思の元

脇目も振らずまっすぐ行って帰るという風習は、どこで身についたのだろうか。寄り道をしてもあまり用事がない、他人に負担もかけられないと行ったところもある。電車もバスも通っているのに、構わず歩いていけるところまで行って、そこで疲れを取る。GoogleMAPを見ながら歩いていると、地図の上では道が一車両分くらいあるけれど、実際にはそこまで十分な幅ではなく、返ってまっすぐ向かったことが遠回りになることもある。都心と郊外のどれか一本の道でそれを行って見たくもなることがある。自分にできることは限られているものの、歩くことで、目的が見えてくる。途中からはペースが落ちてくる自分との対話になるけれど、誰かにやらされているという枷がない分、自分の限度を弁えることができる。よく、自分のことだけを気にかけて欲しいという人がいるけれど、そう行った人にも帰る場所というより、向かう目標があればと思う。僕はできることをできる範囲で工夫するくらいで精一杯だ。
人付き合いはいつも過少か過剰かのどちらかでバランスを取ることにコツがいるようになっている。ある研修で苦痛だったのは名作と言われた映画を集団で見ることだった。映画もある程度クオリティが高く、テーマも明確なのに、なぜかプロパガンダ映画のようで、そこに座っているだけで体力が吸われて行った。一方で、CMやテレビにある娯楽は、それを見るだけで親心ではよそ見をして気が散っているという感情論を誘発しやすい。何事も過ぎたるはというけれど、逆にアイデアを出したり他の人と協業するときには、オリジナリティより、何か興味関心があれば、そのきっかけを教えて欲しいという気持ちもある。
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