それぞれの時代感覚

今年2019年の5月1日から、元号が平成から令和に変わる。近代は明治から大正、昭和、平成となり、元号ごとにトーンが異なっている。その前の年号は江戸時代という括りで、その中でアルファベットの頭文字などのルールの影響もなく、漢文の二字熟語ということだけが共通している。明治時代の新聞も近代デジタルライブラリーで読んでみるとかなり漢字が旧字体で、表現も口語に比べると硬めに感じられる。文化という江戸時代の年号もあり、その頃には町人からボトムアップで風俗や経済効果が醸され、身分制度だけでなく、生活の気風が興されたという。明治と書いて、明るく治めるというものの、実際にはとても治らないというように理想と現実が乖離しているということも近代以降に特有なことでもなかったようだ。文明はcivilizationを福沢諭吉が和訳したもので、一見漢語に見えるものの、西洋と東洋を対等に捉えているところが新しいともいえる。 windowsパソコンゲームのcivilizationというシュミレーションゲームは、スミソニアン博物館での知見とデータベースの構造化にあったという、ともかくもあと1ターン、1ページが気になってしまう。パロディの要素や、純粋な教養に根ざしたものでなかったとしても、それが知識を深めるきっかけになるようだ。シュミレーションゲームでも将棋のように勝ち負けを目的にはしているが、常に勝ちつづけることは難しく、また興味関心が持続しにくくなる。プレゼンテーションではただキーボードやマウスを動かしているだけでなく、具体的なイメージや団体、言語などを引き合いに出しながらも、常に猫の手でも借りたいような協力を求めるようでいたものの、なぜか一人で背負いこむことが多かった。サークルにいた頃は連絡用に作った掲示板の管理権限を巡って噂や荒らしが絶えなかったので、最も誹謗中傷が甚だしい人にあえて親切に応じというよりは、好きでも嫌いでもなかったもののそうせざるを得なかった。

古典では、源氏物語や竹取物語などでの漢文からの引用や出典がある、中国に旅行に行ったときに、歴史の話題で春秋戦国時代について探してみたが、その名残はあまり残っていない、万里の長城は明代のもので、漢や元といった伝説は日本の中で想像が膨らんでいったのかもしれない。中国の生活様式で日本と共通しているところがあれば、安心する。とはいえ新聞では中国の経済成長が減速した、少子化が進んだという現金な話題ばかりで、実態がつかみにくくなっている。中国の歌謡曲を聞いてみると、かつて昭和の高度経済成長では日本が、経済的にも復興が早く、国際的にも開かれていたという気概があったようで、東京に旅すると、浮かれた気分になるという。実際にはそれぞれの方言のようなもので故郷について本質的に言い表したものだと思われるが、どこかありそうでなかったようなエキゾチックな雰囲気が現れる。とはいえ、日米間の同盟関係だけでなく、中国や韓国、台湾にも近代以降の現代的な感覚と、一族の成り立ちのエピソードがあり、僕は特に拠り所がなく、転々とする中でもそういったルーツを見つけることに関心を持っていた。

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近代から現代へのデジタルを読み解く

僕が生まれた頃には、ファミコンがあったけれど、ドラゴンクエストはあまりできず、どちらかというと当時のファミコンショップから、いくつか見繕ってということが多く、ロックマンも攻略本を借りて読んでいるとだんだんと実機でもやって見たくなった。ダイエーのショッパーズプラザのゲームコーナーに学校の帰りなどで集まった子供達がいて、マリオやらロマンシングサガなどのデモ版を順番待ちでプレイしていた。すると、順番がなかなか回ってこないという事もある。でもそこで何か言ったところで、自分達もあまりいい立場でもなかったけれど、そこで同調してもらったことがある意味では励みにもなった。もう一方ではある種派閥のようなものを作っているようで、なんだか反対派の方にそうならなかったSF小説でいうもう一人の自分がいるような気がして、連れ立っていることに気がひけるという事もあった。一方で、ゲームコーナーのゲームだけでなく、テレビをそのまま中継している家電売り場もあり、そこでトランスフォーマーを見たり、ニュースを見たりにも気が紛れた。
物心ついたことには、街にはスーパーマーケットがあり、放課後は自転車で行くことができなかったのに、なぜかそこに学生や大人たちが集まるようになっていた。中にはファミコンのソフトをたくさん持っていたり、漫画や楽器がたくさんあるような自由な友達もいた。そう言ったなかで僕は中学校から高校あたりまでは、缶ジュースを買うついでにゲームセンターで、100円でその時の心境の変化に対応すると言ったことを細々と続けていた。初めに起こったことが、スーパーマーケットからコンビニエンスストアに買い物のバリエーションが増えた。父と商店街の未来像などを語り合った時もあったけれど、どうしても近しい間になると話がまとまらない。あとで思い返して、ああいう事も言っていたなあという感慨が湧いてくる。歴史は、ある程度揺り戻しがわかるような過去の時期に遡ってという事がある。話し相手から見て歴史の面白く無いところは、揺さぶりが効かず不安や喫緊の課題を思い通りに解決できない事だ。そのために、長い目で見た安心や価値観が磨ける期待もあるが、多くの歴史書はリーダーに従うメンバーから見て、どのような方策ならば、リスクを未然に防いだり、グループの成長が実現できるかということにある。それでも、大学のセンター試験で出るような覚えものは、中学の頃は、世界の地理や文化が記号でわかりやすく、高校では、日本語にない英単語や外来語を、時間軸に沿って体系的に覚える事が苦にならなかった。
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現代史に繫がる劇場

明治維新が起こる前に、江戸幕府が開幕する時の決め手になった戦いが関ヶ原の戦いだ。
関ヶ原という狭い土地に、東軍と西軍が分かれて戦った。
現代では東日本と西日本を境に、蕎麦やうどんの出汁の味付けが変わる。
東日本は濃い味の鰹出汁で、西日本は薄い味の昆布だしだ。
お雑煮に入れるお餅は東が四角い餅で、西が丸い餅。
関ヶ原を境に、おおよそ文化が東西に分かれている。人々の食生活や、大阪・京都に特長的な方言にだけではない。
植物の生態系さえも大きく東西に分かれている。
西日本は照葉樹林文化、東日本はナラ林文化になる。それらの風俗や地理を踏まえると、1600年に徳川家康が、豊臣秀吉を戦いで降してどのように引き継いだかという史実とは別に、時代設定が必要になってくる。日本語が全国の標準語になり、例えば新聞も平仮名を交えて読めるようになった明治から近代史。同時代の小説。または、歴史というより、風俗史・職業史を描くとすると、より読者の身近なテーマを扱うことになる。
「東京は文明の配電盤だ。」
司馬遼太郎著「この国のかたち」の有名な書き出しだ。読者はビルやマンションが建った現代にいる。戦前から戦後、今現在にいたるまで、通底した景色がある。それでも自動車やカラーテレビ、冷蔵庫は1980年代から基本的な設計は変わっていない。
電信柱を流れる電圧が変わる。東日本はフランス式で50Hz、西日本はイギリス式で60Hzだ。
鉄砲は江戸幕府はフランス式のミニエー銃で、薩摩・長州藩がイギリスが改良したエンフィールド銃。
文明開化の元になったものは、関ヶ原で負けた側が250年かけて復活したものだという大きな流れがある。それでも、個人やその集団の思想では、100年持つことは稀で、何の目的も継承する伝統のようでもない。関ヶ原で、裏切りの象徴になった小早川秀秋が、火縄銃の銃声で驚いて大勢に寝返ったという史実も当事者の立場になることはできない。後の歴史なら名前の列挙で済むけれど、人々の暮らし向きが東西でまるで地震の活断層か、もっと大まかに特に揺れも動きもしないけれど地層のように色合いや濃淡が分かれている、これは人の決断だけによるものだろうか。大阪の堺では、豊臣秀吉が商人と組んで、太閤町割という碁盤の目のような区画整理をした。通りの両隣にある建物は同じ種類のお店や長屋が並び上下水道が通っている。江戸にも類似したモデルがあり、明治維新になってガス灯や電柱が整備されたり、関東大震災が起こってから、道路や上下水道が整備されたりしてもなお、銀座の裏通りには商売繁盛を祈願する神棚があるという。かつての町割は手作り感のある素朴な長屋のようなものだった、そんな所にさえ安土桃山時代から江戸時代までの面影がある。
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時の流れの伝わりを読む

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
方丈記の冒頭は自然の風景だけでなく、大きな時間の流れの中で、成長と衰退を一連の流れとして捉えている。ホームセンターに行った時の、メダカと苔玉の鉢を見た時には、ハッとした。メダカをシテ、苔玉をワキとする能のようにも思われる。
様式の美を作ることには自由が内包されるが、そこに至る過程は歴史の流れの中での日常を写しているようでもある。
大河小説は、ベートーヴェンの伝記をモデルにして、
ジャン・クリフトフの生涯になぞらえたものだ。
クリストフは、ライン川のほとりに住んでいる。
クリストフは社会の歪みの中で困難を克服し元の姿に戻って行く過程が記されている。彼はヴェートーベンのように難聴ではなかったが、それでも、それに代替しうる試練があったのかもしれない。このあたりから、人々の語り草になるにつれそれぞれにこうありたいという願いも多く内包する。彼もまた、社会のために何ができるかを問い直す時がやってくるのだろうか。それは、その時代の生き方を写している。
大河小説は大河ドラマというテレビドラマの金字塔になって行った。
大河が歴史を表すようになった。歴史ドラマといっても、過去の話になってしまってとらえどころがない。その時代のディテールを随所に残しながら、見る人の共通のライバルや試練を、理想の主人公に仮託する人間ドラマが作られた。現代では殺人やクーデターは起こせないが、戦国時代では、合法的にアクション要素を盛り込める。
逆に、漫画では流れの中で作画をまとめて行く、とりとめのない話にならぬよう金字塔が必要だ。漫画として初めてプロ意識を持って、見る観客が円形スタジアムの中で波打って、一体化する。そういったイベントがあって、
初めて漫画に没入できる。近代ではより個人の悩みに寄り添った精神的な作品もあるかもしれないけれど、まずは、現実のある一点に、視点を固定して、そこで起こる変化を流れやループにする観察をして、それを時間別に記録する。その蓄積が、個人の家でなく、社会に役立てるような形であれば残りやすい。漫画でも、絵が上手いだけでなく、ストーリーが芯が通っている方が作品の理解がしやすくなって、感情移入を促す。しかし芯といっても容易く折れるような棒状ものでなく、立体的に球状に動いて、関節のようなもので手足が自由に動かせるような、骨格と関節のようなものと考えている。それだけでは抜け殻のようなものでも、意志が入れば躍動感を取り戻す。
巨人の星は、プロ野球を目指して高校野球を志す球児たちの動機になった。僕は野球のルールは分からない。この漫画をいくら呼んでも、本当の理解に及ばないのかもしれない。それでも、高校野球部だけじゃない、高校で授業以外の課外活動は皆、球児のマインドに震えていた。関東第一高校のオコエという黒人の選手が、ついに甲子園のマウンドにたった。そこに至るまでの多くの挫折と試練があったと思う。よくバスケットボールを高校から始めようとすると、中学から経験を積んだ選手に技術で勝てない。バスケットではなく、その時を大切に勝負をする覚悟、または、ソフトボールなど違う球技の柔軟さが、部活継続の秘訣だという。それでも同じマウンドに立って、11人のメンバーが一つの球の元で共同作業をする、色々な出会いがあり、その後に、それぞれの部活で国を代表するような県大会に望んで、社会人になっていく。
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