印象と雰囲気の味

歴史や道徳が示すあるべき姿には現実味が薄く、その都度読み手が思い悩む事が多かった。とはいえ、その理想を押し付ける圧力に抗えず、いつしか相手の言うままになっている。ということもしばしばある。かつては食べることが、生き残るための手段だった。日常会話では、常に誰かを差別している。それが無くなると返って会話の糸口がなくなる。とはいえ、相手が落ち込むと、それが自分の糧になると思うのはある意味では錯覚だと思う。歴史を議論していると、身近な人物に仮託してそれを具体化するという置き換えを行うことがあるが、それはそこでの居場所を確保するための手段にすぎず、落ち着いて自分なりにフラットな視点を取り戻したくなることもある。どのみち過去の時間は変えられない。もし比較的思い通りに行かないことがあれば、その願望が裏目にでることもある。

個人的に疲れるのは、頭の中で罵声が飛ぶことくらいで、それも何事もなかったことにできれば、別段影響もない。噛ませ犬は、身近なものを噛むことで生き残る自信と気休めを取り戻すと言う。その過程でやられたとしても、別にどうと言う事もない。もともとやりたいことはなんだったのかと一言アドバイスしたいくらいだ。

居場所を得ることについて、組織的なものや、序列的なものがあるけれど、それは居合わせる順番や感情にもよる。たいていは相手がその主導権を握っていて、それがうまくいけば、場が変わる。自分がそれをどうこうしようと思ったことはあまりない。一族は会話を始める時、極端から極端に話題を傾けて流れを作る。それは、世の中が好景気になっても、そうでなくても淡々と続けられてきていた。それでも、会話をするための手段が断片的であることが多かった。ほとんど、これ、それ、あれといった具合で、察しながら行動する。正直あまり察しはよくなく、そのことで落ち込んでいると、例えばその風景を描いてみるとどこになにがあるか大体整理されるといったこともある。バリアフリーという設計があり、それを知ったときは身の回りのものを整理することで、そこから平等や未来感が見えると思ったこともあった。小学校に通っていた学校はプレハブだったが、公民館ができた頃にはクラスの垣根が取り払われたり、トイレがピカピカに掃除されていたりと、次の世代が羨ましくなることもあった。とはいえ、実際には、どこかしこに縄張りや、段差があり、そこで転ばないような知恵をつけることが適応力を養うという。

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誘導と向き合う

数にこだわっていたわけではなかった。一種の目安としてと言うところがあった。よくスポーツを見ていると、これっていいところまで引き分けにして最後に一点取ると効率良く勝てる。と言ってしまえば極論だろう。そこまで勝つことに拘れない。サッカーの場合、みんなで一つのボールを回してそれで協力して取っていて、まるで原住民の漁のような趣がある。もし、大きな獲物を捉えればそれだけ集落は貯蓄が増える。原始的には勇者は、ともすれば特定の役割を持たない、つかみどころのない者かもしれないが、そう言った儀礼的な側面もあったのかもしない。でもそれになりたいと言う人がたくさんいれば恐らくは競争になり、集落や部族トライブの誇りを守ると言うより、特定のグループの人物を陥れる方法を身につけようとすると言うリスクもある。自分にもそう言った部分が全くないかといえば嘘になるかもしれない。それでも世の中が善と悪、苦労と安楽だけで分けられない、割り切れないとしてもなんとも後味が良くない。

陶芸は土からできる原初的な文化というよりは、生活の手段だった。それでも今ではそう言った活動ができない、窯を作って火を起こすのも燃費が計り知れない。それでも土をセラミックに加工には熱と化学変化が必要ということだけは伝わっている。かつては多くのIT担当者がろくろを捏ねるようなしぐさをして、それでアイデアの形を伝えたという。昭和年代のように空き地がなく、ベーゴマを鉛で鍛造するということも、今ではできず、ベーゴマの形のプラモデルをカスタマイズするという別の体験に置き換えたという活動になっている。もし大学があったとして、その先に別の世界が拓けていれば、学ぶことに客観的になれた、自分を見つめ直すこともより容易だったかもしれない。

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