言葉にならない微かなメッセージ

会話文を何がを抜いて動詞だけにすると誰かに依頼しているような感じになってなんとなく気がひける。普段もではあれやって、これやってとほぼ以心伝心で、たまにそれが気恥ずかしくなる。それが最近はまともな方向にシフトしてきていた。僕は割と古風だったのだろうか。とはいえ、子供の頃はテレビの教育番組ばかり見ていた。なので、相手から何かを押し付けられないことがある種慣れっこになっていた。多くの人が役者とはいかないが人気者を目指していろいろなことを我慢したり、または誇張したりしている。僕もその一人ではあるのだろう。それでも、だれかと競争すると大抵は何かの取り合いになる。ちゃぶ台の醤油差しを巡ってトラブルになったりと、共存するところでは段階がある。相手を妙に意識しすぎるところがある、その人の言うことを聞いていればその場は収まるのか、巷のおしゃべりを見てみると言い返さないから、言われたい放題になると言う。そこで適当に言い返しておけば、あいつは変わり者ということで相手の自尊心も傷つかず、その場をやり過ごすことができる。
昨今ではいろいろなものがバーチャル化しているが、それでも建設的な根拠は依然として根強い、それよりも何かを作ることを事前に確かめたり、意識あわせをするほうが漸進的なように思われる。挨拶をすると言い返せないという感じが常にある、それでも日がまだ浅いので、ある程度長い目で見て、適度に相手を余裕を持たせることも大切なように思われる。常に何か用事があるという、状態がSNSでは生まれやすい。最近では、SNSでも特に用事がないのに、用事があるように装っていることが気疲れするようになっている。僕はインターネットで一応仕事を探したりしているので、どうしてもその気配が次の日に筒抜になっていて、それとなく郵便局の伝票がエレベーターに貼られていたりすることもある。だれかと関わりたい、それもその人に負けまいとするようにという気がいろいろなところで張り詰めている。誰しもが暇であることに耐えられない。かといって無理に何か用事を作ろうとしても、ある程度タイミングが重なってしまう。言葉は通じるし、計算は何度も確かめれば、その時点では優位になる。そこで素直に感謝でもしておけばある程度やり過ごせそうではあるけれど。普段の生活や、作業の中で、何か新しいことがあるとすればと思索を巡らせる。それぞれの居場所があることと、期待していたところになんらかの事情でできなかったとしたら、だれかに辛く当たりたいときもままあるのかもしれない。そういたものは、ただぼーっとして眺めているだけにすることにしている。
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