中国独自の目に優しいdisplayをもつYotaphoneがバージョンアップすると、macBookのUSBで認識しなくなってしまった。それでも充電はできて、E-inkでも節電モードで電子書籍を読むことができる。そこで漫画が表現力と一覧性に富んでいるものの、例えば大元の歴史書として史記がKindleになっている。史記は伝説が歴史に変わる起源を、時には民間の伝承から、またある時には、当時の中国の一族の伝記からその大元の歴史を想像して書かれたものだという。漢文では鴻門の会などの京劇でも敵と味方に分かれてそれぞれがパフォーマンスを行うという形式になっている。漢書は高校の時に興味を持って読んだことがある。Kindleには在庫がなく、図書館で文庫本のサイズで読むことがとても貴重な行為になっていることに驚いた。もともと文書はすだれ状の竹の束に小刀で削って記録されている。日本では和紙、エジプトではパピルスという繊維状のものに記録が残されたという。
Androidのバージョンも最新のwindowsに搭載されるものも5.1版の安定版がインストールされるようだ、パソコンに比べるとOSがあまりアップデートされにくい性格がある。アクションゲームをするにしても、すでに4.xくらいでかなり動きのバリエーションが充実している、例えばUnityでは今までのアニメーションを再構成するようなパッケージが開発されている。それはそれで表現の幅が広がって可能性が広がりそうだけれど、一方であまりメモリや演算能力が無かった頃に世界のことをよく知ろうとして、その片隅で作られたようなものがレアになることもあるかもしれない。
秋葉原の駅前にあるアトレのショッピングモールにも東方シリーズのpixivの人気絵師が書いた絢爛豪華なイラストもその原典のwindowsソフトには、手書き風の童心に喚起するようなCGから想像するしかなかった。もしスマートフォンに東方シリーズの第1作目が移植されば、隙間時間でも飽きることがなさそうだけれど、実際には例大祭などの国際展示場での催しでは、なぜか旧型のwindowsデスクトップパソコンがセットアップされて、そこで実際のゲームが再生されるという儀式のような手順が行われている。
人気に振り回されることなく、物事のあり方を自分なりに確かめたいと思うことは実は、傍に人がいないように振る舞うようで自分勝手なことなのだろうか。というふと気がかりになることもある。それでもそれはあくまで仮説であって、そうあるべきというように正義感が傾くようなことに客観的になれることがある。
史記と漢書は中国の原風景を表しているように思える。お茶碗の形も、卓上にあるしょうゆ差しが試行錯誤を経て作られたように、手の形に馴染むように形が決まっている。もしかしたら3Dプリンターでもお茶碗を作るような時代がくるかもしれない。そうなると河原に陶器のカケラが景色のようのなっている中国の一地方の素朴な魅力が幽玄なものに感じられる。中国でも日本でいう無印良品が普及するという動きもあるけれど、無印良品は西友の家電に白いペンキを塗ってリデザインしたものが元になっている。その起源は、壊れかけていてもまだ使えるCDラジカセやにあった。それが伝統的な家具や、自然と調和するように形を整えることで、ありそうでなかった生活様式が想起される。例えば3Dプリンターでネジとボルトや、ペットボトルのキャップと容器が作られるようになると何か入れ物を持つことが、中身を保存するだけでなく加工することの意味を知ることになるかもしれない。
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